徳川氏(?川氏、とくがわし)は、徳川家康が創始した日本の苗字。信憑性に乏しいが、系図上では新田氏系得川氏の末裔ということにされている。発祥の地は、上野国新田郡得川郷(現・群馬県太田市徳川町)とされる。
目次
1 徳川家康に始まる徳川氏
1.1 「徳川」創称
2 清和源氏を称した事情
3 系譜
3.1 徳川宗家
3.2 尾張徳川家
3.3 紀州徳川家
3.4 水戸徳川家
3.5 田安徳川家
3.6 一橋徳川家
3.7 清水徳川家
3.8 松戸徳川家
3.9 徳川慶喜家
4 徳川と松平
5 関連項目
5.1 徳川家関連自治体
6 外部リンク
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徳川氏は、徳川家康が創始した苗字。系図によると、ルーツは三河国(愛知県)の在地領主の松平氏に婿養子に入った時宗の遊行僧と伝えられる徳阿弥である。浪人となり、大浜称名寺で開かれた連歌会での出会いが信重の養子に入るきっかけと伝えられる(父祖の地上野国新田郡徳川郷の時宗寺院、徳川満徳寺は後に縁切寺とされた)。還俗して松平親氏と名のったという。しかし、諸国を流浪する遊行僧だの、入り婿に入っただのという設定は、所詮本来無関係な新田氏と松平氏を系譜上つなげるために、おそらく家康の代に唱えられた創作に過ぎない。要するに親氏以前の確かな系譜はわからないのである。松平親氏を初代とする松平家九代(安祥松平家六代)の家康が起こした親氏流松平氏嫡流である徳川将軍家(徳川宗家)のほかに徳川姓を許されるのは、家康直系の子孫(親藩)のうちでも特に徳川御三家(尾張家・紀州家・水戸家)、御三卿(田安家・一橋家・清水家)およびこれらの後嗣のみであり、これらの家に養子として入る者も家康の男系の子孫たちであった。
永禄9年(1566年)、朝廷の許可を得て、家康個人が「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)し、従五位下三河守に叙任された。このとき正親町天皇は前例のない申請に対して躊躇したが、新田氏系得川氏が「藤原氏」を称した前例が公家の奔走により見つかり、許可された。このため当時の記録に「藤原家康」の署名が残っている。慶長8年(1603年)に家康が源氏長者・征夷大将軍に任ぜられるときには、「清和源氏」となっていた。
ここで重要なのは、松平一族が徳川に改姓したのではなく、「徳川」は家康個人のみに許される称号であったことである(嫡男の信康については、名乗った説とそうでない説がある)。「徳川」姓は、家康個人が松平氏内部で専制権力を確立して松平一族と家臣団を統制するために使われたと考えられる。初代家康が慶長10年(1605年)に将軍職と当主の座を辞して隠居するまでに徳川姓を称したのは、世子の秀忠ただ一人であった。公認される限り十一人いた家康の男子で徳川姓を許されたのは、三男で世子の秀忠、及び御三家の祖となる九男義直・十男頼宣・十一男頼房の4名にすぎない。後の3名は、秀忠が二代当主(将軍)になって以後に元服したものである。
徳川氏の系譜は、系図上は清和源氏の新田氏の支流得川氏の末裔と位置付けられており、従って本姓は源姓であり、源朝臣という。一説には、当初朝廷の許可では徳川氏は源姓ではなく藤原姓の氏族として認められていたが、家康が江戸幕府を開くに当たって、幕府の長たる征夷大将軍は源氏という慣例があったために、系図の粉飾が行われたのだとも言うが、実はそれより先の1567年に三河守を受領するために、すでに系図の粉飾が行われている。