徳川吉宗
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 凡例徳川 吉宗
徳川吉宗像(徳川記念財団蔵)
時代江戸時代中期
生誕貞享元年10月21日1684年11月27日[1][2]
死没寛延4年6月20日1751年7月12日[3]
改名松平頼久→頼方→徳川吉宗
別名幼名:源六
通称:新之助
渾名:米将軍、八十八将軍、八木将軍
戒名有徳院殿贈正一位大相国(法号)
墓所東叡山寛永寺円頓院
官位従四位下右近衛権少将主税頭
従三位左近衛権中将
参議権中納言
正二位内大臣右近衛大将右大臣
正一位太政大臣
幕府江戸幕府 8代征夷大将軍
享保元年(1716年8月13日 - 延享2年(1745年9月25日
越前葛野藩主→紀伊和歌山藩
氏族紀州徳川家→葛野松平家→紀州徳川家→徳川将軍家
父母父:徳川光貞
母:浄円院
養父:徳川頼職徳川家継
兄弟綱教、次郎吉、頼職、吉宗、栄姫(上杉綱憲正室)、光姫(一条冬経室)、育姫(佐竹義苗正室)、綱姫
妻御簾中:真宮
側室:深徳院深心院本徳院覚樹院おさめお咲
家重、男子、宗武、源三、宗尹、芳姫
養子宗直竹姫利根姫
猶子:尊胤入道親王
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徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府の第8代将軍(在職:1716年 - 1745年)。江戸幕府の中興の祖とも呼ばれている。和歌山藩の第5代藩主。初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉はとこにあたる。
生涯

※ 日付は、旧暦表示
出生

貞享元年(1684年)10月21日[1][2]紀州藩徳川光貞の末男(四男)として城下の吹上邸において生まれる[注釈 1]。母は巨勢利清の娘・紋子和歌山城大奥の湯殿番であった紋子は、湯殿において光貞の手がついたという伝説がある。

幼年は家老加納政直の元で育てられた。当時、父親が「四十二の二つ子(四十一のときに生まれた子供)」では子供は元気に育たないという迷信があった。そのため、一旦和歌山城中の松の木のそばに捨て、それを政直が拾うという体裁を取った[注釈 2]。加納家でおむつという乳母を付けられ、5歳まで育てられた。次兄・次郎吉が病死した後は名を新之助と改め、江戸の紀州藩邸に移り住む。幼い頃は手に負えないほどの暴れん坊だった。
越前葛野藩主騎乗像(和歌山市)

元禄9年(1696年)末、13歳で従四位下右近衛権少将兼主税頭となり、松平頼久(よりひさ)と名乗る。同時に兄の頼職も従四位下左近衛権少将兼内蔵頭に任じられている。翌元禄10年(1697年)4月、紀州藩邸を訪問した将軍徳川綱吉御目見し、越前国丹生郡内に3万石を賜り、葛野藩主となる。またこれを機に名を頼久から松平頼方(よりかた)と改めた。同時に兄の頼職も同じく越前国丹生郡内に3万石を賜り、高森藩主となっている。

父・光貞と共に綱吉に拝謁した兄たちに対し、頼方は次の間に控えさせられていたが、老中大久保忠朝の気配りにより綱吉への拝謁が叶った、と伝わる。しかし兄の頼職とは叙任も新知も石高までもが並んでいるため、兄と差をつけられていたという話は疑わしい。なお、葛野藩は家臣を和歌山から派遣して統治するだけで、頼方は和歌山城下に留まっていた。同地では「紀伊領」と呼ばれていた。派遣された家臣も独立した葛野藩士という身分ではなく、紀州藩の藩士である。
紀州藩主

宝永2年(1705年)に長兄である藩主・綱教が死去し、三兄・頼職が跡を継ぐ。この際、頼職が領していた高森藩は幕府に収公された。後に3万石の内、1万石分が加増編入されたため葛野藩は4万石となった。

しかし同年のうちに父光貞、やがて頼職までが半年のうちに病死したため、22歳で紀州家を相続し藩主に就任する。藩主に就任する際、綱吉から偏諱を賜り、(徳川)吉宗と改名する。紀州藩相続時に葛野藩領は幕府に収公され、御料(幕府直轄領)となった。

宝永3年(1706年)に二品貞致親王の王女真宮(理子)を御簾中に迎えているが、宝永7年(1710年)に死別した。

宝永7年(1710年)4月にお国入りした吉宗は、藩政改革に着手する。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先した。2人の兄と父の葬儀費用や幕府から借用していた10万両の返済、家中への差上金の賦課、藩札の停止、藩内各地で甚大な被害を発生させていた災害である1707年宝永地震・津波の復旧費などで悪化していた藩財政の再建に手腕を発揮する。また、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。

紀州藩主時代、深徳院との間に長男・長福丸(後の徳川家重)、本徳院との間に二男・小次郎(後の田安宗武)が誕生した。
8代将軍就任

享保元年(1716年)に将軍徳川家継が8歳で早世し、将軍家の本家血筋(徳川家康の三男秀忠の男系)が絶えた後を受け、御三家の中から家康との世代的な近さを理由に、御三家筆頭の尾張家を抑えて第8代征夷大将軍に就任した、と一般的には説明されている。

ただし、実際には館林藩主で家継の叔父に当たる松平清武とその子で従兄弟の松平清方と、この時点では徳川家光の男系子孫は存在していた[注釈 3]。しかし、館林藩では重税のため一揆が頻発して統治が安定していなかった上、清武は他家に養子に出た身であり、すでに高齢だったという事情により、選考対象から外れていた。清武自身も将軍職に対する野心はあまりなかったと言われている(詳しくは清武の項目を参照)。

御三家筆頭とされる尾張家では、当主の4代藩主徳川吉通とその子の5代藩主五郎太が正徳3年(1713年)頃に相次いで死去した[注釈 4]。そのため吉通の異母弟継友が尾張藩6代藩主となる。継友は皇室とも深い繋がりの近衛家熙の娘の安己君[注釈 5]と婚約し、間部詮房新井白石らによって引き立てられており[注釈 6]、8代将軍の有力候補であった。


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