徐庶
■毎日更新無料動画!
■未公開流出画像満載

[Wikipedia|▼Menu]
徐庶

徐庶(じょしょ、?? 234年?)は、中国後漢末期から、三国時代にかけての武将政治家は元直(げんちょく)。
目次

1 略要・人物

1.1 概要

1.2 生涯


2 三国志演義などの徐庶

//


略要・人物


概要

元の名は福であり、単家(たんか(ぜんかと記載する書もある)、権勢のない家柄、或いは寒門)の出身である。『三国志』「諸葛亮伝」注に引く『魏略』に略伝がある。豫州穎川郡(現在の河南省許昌市)の出身。


生涯

撃剣の使い手で、義侠心に厚く友人の敵討ちを引き受けるが役人に捕らわれる。後日友人が助け出し、心に強く感ずるところがあったので、以降は剣を捨て、学問に励むようになった。こうして出身地を同じくする石韜と親しく交際するようになった。後漢中平年間(184年 - 189年)、戦乱が激しくなると、石韜と連れだって荊州に移住し、司馬徽の門下生となった。さらに、諸葛亮と特に親しくなった。

その頃、劉備荊州新野(河南省南陽市新野県)に駐屯していた。徐庶は劉備と会見し、劉備は彼を有能な人物だと思った。徐庶は諸葛亮を推薦し、劉備が徐庶に呼びに行かせようとすると、徐庶は「この人は、こちらから行けば会えますけれども、無理に連れて来ることはできません」と言った。こうして、劉備は三顧の礼で諸葛亮を迎え入れることになった。

のちに劉備が曹操に敗北した折、徐庶の母が曹操軍の捕虜になると、動揺した徐庶は劉備に別れを告げて曹操の元に赴いた。その後はに仕え、右中郎将・御史中丞にまで昇った。また石韜は典農校尉に昇った。後に諸葛亮は北伐を行なった際に二人の官職を聞き知り、各々の才能に不充分な官職と思い、「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」と嘆いたという。なお、徐庶の没年は不詳だが明帝期に亡くなったと史書に記されており、上記『魏略』によれば、諸葛亮と同じころに彭城で病死したと記されている。また、徐庶は御史中丞あたりまで「福」を名乗っていて、晩年に「庶」と改名したらしい。


三国志演義などの徐庶

三国志演義』では、「単家出身」をと勘違いしたのか、「単福」を偽名として名乗ったとする。 新野時代の劉備と出会ってその軍師として迎えられ、新野城の攻防戦では曹仁李典率いる魏軍五千を二千の兵で迎撃し、見事に打ち破る。その後、報復と称して曹仁・李典が二万五千の兵で南下するが、曹仁の八門金鎖の陣を見破り、完膚なきまでに叩き伏せた。

程cの策による、徐庶の母親の筆跡を真似た偽手紙を受け取り、止むなく曹操に下ることになるが、去り際に劉備に諸葛亮を推薦する。また、曹操のために献策はしないという誓いを立て、劉備の下を去った。母親はこれを見て徐庶をなじり、自殺してしまった(史書には自殺したとの記載はない)。

赤壁の戦いにも従軍したが、?統が仕掛けた連環の計の真意に気づきながらもこれを見逃し、?統の助言により涼州の馬騰に対する備えという名目で陣を離れ、被害を免れた。 ちなみに演義の第36回に、徐庶の弟の徐康(じょこう)が程cの発言中に登場する。  カテゴリ: 三国志の登場人物

更新日時:2008年9月13日(土)14:52
取得日時:2008/10/01 22:21


★制服でHなバイト★
1日5万円★日払い★

[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:5590 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki