後亀山天皇
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後亀山天皇
第99代天皇
在位期間:1383年10月 - 1392年11月19日
在位中の時代室町時代南北朝時代
在位中の年号弘和
元中
在位中の首都吉野
在位中の皇居吉野山
諱熙成
別名大覚寺殿
出生1347年?
死没1424年5月10日
陵墓嵯峨小倉陵
皇子女小倉宮恒敦
中宮(北畠信子?)
父親後村上天皇
母親藤原勝子

後亀山天皇(ごかめやまてんのう、正平2年/貞和3年(1347年[1]? - 応永31年4月12日1424年5月10日))は、南北朝時代の第99代、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)10月 - 元中9年/明徳3年閏10月5日1392年11月19日))。名を熙成(よしなり[2])という。 明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として認定されるようになった(それまでは一貫して現皇統につながる北朝が正統とされていた)。
目次

1 系譜

2 略歴

3 在位中の元号

4 陵墓・霊廟

5 参考文献

//


系譜

後村上天皇の第二皇子、母は藤原勝子(嘉喜門院)。

一級史料に確認出来る皇子女は、次の1皇子のみである[3]

母不詳

皇子: 小倉宮恒敦(?-1422) - 親王宣下の有無は未詳。

近世の南朝系図は何人かの皇子女を挙げるが、基本的に信頼出来ない。

中宮:源(北畠)信子[4] - 北畠顕信

第三皇子:良泰親王(小倉宮)(1370-1443)

皇子:行悟法親王(1377-1406) - 長慶天皇皇子であろう。

第一皇女:泰子内親王 - 二条冬実室


女御:藤原(二条)教子 - 二条教基女

第一皇子:世泰親王(1360-1377) - 長慶天皇皇子であろう。


典侍:藤原(日野)邦子 - 日野邦光女

第二皇子:師泰親王(1362-1423)


母不詳

皇子:瑚l真阿(1374-1440) - 十念寺創建

皇子:j?仏妙(?-1448) - 十念寺2世


略歴

弘和3年/北朝永徳3年(1383年)末に長慶天皇から譲位され、践祚。長慶は幕府に対する強硬派の人物で、南朝内部には路線対立が存在していたと言われる。後亀山の即位後に幕府との和平交渉が再開されていることなどから、後亀山の即位には和平派の後押しがあったと考えられている。在位9年、衰微する南朝政権を支えた。

元中9年/北朝明徳3年(1392年)10月、室町幕府3代将軍足利義満より両朝講和の条件提示があり、天皇はこれを受諾した。南朝君臣は神器を奉じて吉野を出立し、京都大覚寺に到着。閏10月5日三種の神器のみが大覚寺から北朝後小松天皇の土御門内裏に移された。ここに南北朝時代は終わり、皇統は北朝の一統に帰することとなった。後亀山は後年、両朝合一を決断した理由について、永年の争いを止め、民間の憂いを除くためだったと述懐している。合一後、大覚寺に入った後亀山は幕府の被扶養者としての待遇に甘んじ、明徳5年(1394年)2月、「不登極帝(即位しなかった天皇)」として太上天皇の尊号を贈られたが、応永4年(1397年)11月にはこれを辞退した。

その後は出家して金剛心と号し、もっぱら隠遁生活に入る。ところが、同17年(1410年)11月に突如嵯峨を出奔して吉野にこもり、以来ここで数年を過ごした。この事件について、『看聞日記』には生活上の困窮によるものと見えるが、当時の幕府が講和条件(両統迭立)に反して後小松天皇皇子の躬仁親王(後の称光天皇)の即位を目論んでいることから、そのような動きに不満を抱く後亀山法皇の抗議行動であったとも考えられる。しかし、その甲斐もなく、同19年(1412年)に称光天皇が践祚、同23年(1416年)9月、広橋兼宣らの仲介で法皇は嵯峨大覚寺に還御した。同31年(1424年4月12日崩御。年齢は75歳とも78歳とも伝えられる。


在位中の元号

弘和1383年10月)- 1384年4月28日

元中 1384年4月28日 - (1392年10月5日


陵墓・霊廟

京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町にある嵯峨小倉陵(さがのおぐらのみささぎ)に葬られたとされる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki