元寇(げんこう)とは、日本の鎌倉時代に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国(元)及びその服属政権となった高麗王国によって2度にわたり行われた日本侵攻(遠征)の、日本側の呼称である。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。蒙古襲来とも。中国語では元軍侵日戦争と称する。『蒙古襲来絵詞』より。文永の役における戦闘。「てつはう」による攻撃の場面。玄界灘に面した生の松原(福岡市西区)。弘安の役における激戦地であり、『蒙古襲来絵詞』にも描かれている。元の再度の襲来に備えて、玄界灘沿岸には石造による防塁が築かれ、現在も遺構が残る。写真は当時のものを再現したもの(2005年5月撮影)
目次
1 経緯
1.1 外交交渉から侵攻まで
1.2 文永の役
1.3 弘安の役
1.4 日本の被害
1.5 影響
2 元寇の諸相
2.1 日本侵攻の理由
2.2 高麗の関与
2.3 蒙古国書・元使殺害
2.4 神風
2.5 軍事面
3 その他の説
4 史料
5 関連項目
6 外部リンク
7 脚注
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*文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
1260年にモンゴル帝国の第5代皇帝(カアン、大ハーン)[1]に即位した後のいわゆる「元」(大元ウルス、大元朝、元朝)の皇帝クビライ・カアンは、1268年(日本の文永5年・大元朝の至元5年)に第2代皇帝オゴデイ以来の懸案であった南宋攻略を開始する一方、既に服属していた朝鮮半島の高麗を通じて、1266年に日本に初めて通交を求める使者を送ろうとしていた。『元史日本伝』によるとこの使節を送るのは高麗人で元の官吏である趙彝の進言からとある。しかし高麗の宋君斐・金賛が案内する蒙古の使節ら(正使・黒的、副使・殷弘)は巨済島まで来て、航海の困難を理由に引き返し、クビライに対して日本への通使の不要を説いた。クビライは予め「風濤の険阻を以って辞となすなかれ」と日本側への国書の手交を厳命していたが、その「風濤の険阻」を理由に使者の両名は渡海もせず引き返してきたことに憤慨してこれを却下、再び高麗に命令し、使節が1268年正月に大宰府へと到着。大宰府の少弐資能(武藤資能)は蒙古国書(日本側では牒状と記録)[2]と高麗王書状[3]を受け取り、鎌倉幕府へ送達する。
鎌倉幕府は5代執権北条時頼没後その嫡男北条時宗が若年のため傍系の6代北条長時、ついで7代北条政村が執政し、これを漸く成年に達した連署の北条時宗らが補佐する体制が敷かれていたが、この危機を前に1268年3月には時宗が8代執権に就任。幕府では関東申次の西園寺実氏に託して蒙古国書を朝廷へ回送し、黙殺を決定させる。さらに幕府は後嵯峨上皇没の直後の2月騒動で時宗の庶兄北条時輔等を粛正し統制を強化、さらに諸国への異国警護、異国降伏の祈祷を行わせる。宗教界にも影響を与え、日蓮は『立正安国論』を幕府に上程して国難を主張する。
同年には再び派遣された使節が日本へ上陸したが、これを黙殺した。これを見た高麗に反乱を起していた三別抄から、共同で元に対抗する軍事的援助を求める使者[4]が来訪したがこれも黙殺した。
1271年9月、元使の趙良弼らが元への服属を命じる国書を携えてきた際には、幕府はこれを朝廷に進上した。朝廷は急いで伊勢に勅使を派遣し、神々に異国降伏を祈った。朝廷内部では返事を出すかどうかで論争されたが、幕府が返事を出す事に反対した事、朝廷内でも「元の要求に屈するべきではない」という強硬論が強かった事から、朝廷・幕府ともに国書を黙殺する事になった。クビライはその後も何度か日本に使者を出したが全て無視され、最終的に武力侵攻を決定する。
『元史高麗伝』によると当初より3つの案が検討された。