広瀬青邨
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広瀬 青邨(ひろせ せいそん、文政2年8月15日1819年10月3日) - 明治17年(1884年2月3日)は、日本儒者は範、字は世叔、通称は卯三郎のちに矢野範治、号は青邨。広瀬淡窓の門で学び、詩を能くし、書にも画にも優れた[1]
略歴

豊前の矢野徳四郎の四男として生まれる。

天保5年(1834年)、16歳で咸宜園に入門し21歳で都講となる。

天保12年(1841年)、肥後の深水玄門に師事し医学を学んだ。

天保15年(1844年)に広瀬淡窓の養子となり、咸宜園の塾政を任される。

文久2年、成長した広瀬林外に塾政を譲り、藩校 遊焉館の教頭となる。

明治2年(1869年)、明治政府の命令で京都学習院漢学所へ赴任するとともに、西園寺公望御所内の邸宅に開校した私塾立命館で講師を務める。

明治10年(1877年)、東京華族学校(後の学習院)の創立に関与。教授・監事に選ばれた。享年66。墓所は多磨霊園

脚注[脚注の使い方]^伊勢を創った太田小三郎秋田耕司、NFC

関連項目

広瀬氏

石坂正信(教え子)

太田小三郎(教え子)

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