広瀬 登喜夫(ひろせ ときお、1940年8月23日 - )は、日本の元オートレース選手。愛知県出身。期前、元川口オートレース場所属。2003年1月27日の川口オートレース場第2レースをもって引退した。
目次
1 略歴
2 通算成績
3 ダートの神様
4 雌伏の神様
5 復活の神様
6 指導の神様
7 その後の神様
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
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略歴
1958年
11月デビュー。当時は18歳以上からレーサーになれたが、当時16歳の広瀬は年齢を偽ってデビューした。
1965年
3月23日、第1回日本選手権オートレース(川口オートレース場)優勝。当時の競走車呼名は「ダートオー」。競走タイムは3.74(ダート)。
1966年
10月25日、第3回日本選手権オートレース(飯塚オートレース場)優勝。競走車呼名は「トキオー」。競走タイムは4.12(ダート)。
1969年
5月6日第3回オールスターオートレース(川口オートレース場)優勝。競走車呼名は「ファンタム」。競走タイムは3.51。同年賞金王に輝く。
1970年
10月、八百長の嫌疑をかけられ逮捕される。実質的にオートレース界を追放される事態に。
1975年
10月、高裁で無罪が確定し、現役に復帰。
1977年
3月1日、開設20周年記念レース(飯塚オートレース場)優勝。
11月7日、第3回グランドチャンピオン決定戦(川口オートレース場)優勝。
11月23日、第19回秋のスピード王決定戦(浜松オートレース場)優勝。
1978年
3月28日、開設26周年記念グランプリレース(川口オートレース場)優勝。
1988年
3月3日、開設36周年記念グランプリレース(川口オートレース場)優勝。
1990年
後期ランクで川口A1になる。翌年の第5回スーパースター王座決定戦に出場。
1992年
7月20日秋田敬吾(5期、山陽オートレース場所属)、飯塚将光(9期、船橋オートレース場所属)に次いで通算1000勝達成。
1995年
落車事故で重傷を負う。翌年、奇跡的に復帰。
1997年
当時新人の森且行(25期、川口オートレース場所属)の指導員になる。
2003年
1月27日、この日の第2レースをもって現役を引退。最終戦成績は1着。引退後、日刊スポーツのオートレース評論家兼解説員に就任。
2004年
3月16日、SG第17回全日本選抜オートレース初日に走路上イベントに参加。
2006年
4月30日、この日を最後に解説等の仕事から退く。
通算成績
勝利数
1272勝
優勝回数
59回
主なタイトル
日本選手権オートレース(第1回、第3回。いずれもダート)
オールスターオートレース(第4回)
賞金王(1969年)
※上記のうち、勝利数と優勝回数は1967年10月の舗装化以降の記録である。[1]
オートレースを語る上で避けては通れない人物の筆頭、それが広瀬登喜夫である。1956年11月にデビュー。それから10年、1967年までオートレース場のバンクは舗装されていなくダート走路であった。走路コンディションは現在の舗装路とは比べるまでも無く、また、防具等も現在に比べ遥かに劣悪であり、落車が多く、選手の殉職も珍しくなかった。広瀬自身、「よく落車しては死んだ。私の師匠も亡くなったし、一週間に三人死んだこともある。レースの合間に火葬場に行ったりした。」と述懐している。その最も危険な時期に広瀬が負った怪我と言えばせいぜい鎖骨を骨折した程度であった。
当時はオートレースも2回乗りが認められていた。当時の広瀬の強さは最早常軌を逸しているといってもよいレベルで、「広瀬が一日2回勝つのは当たり前。1回でも2着があると場内は騒然となる。2回とも負けるともう『事件』だった」という伝説が今なお語り継がれている。
そして、広瀬は1965年、地元川口オートレース場で開催されたオートレース初の全国争覇レース、第1回日本選手権で優勝した。その時の広瀬は断然の一番人気で、その当時のハンデは今日ではありえない130メートルであった。[2]この頃から既に「オートの神様」との異名がついていた。