幸徳 秋水
1871年11月5日 - 1911年1月24日
生年:1871年11月5日
生地:高知県
没年:1911年1月24日
没地:東京都
思想:社会主義、アナキズム
活動:大逆事件
裁判:死刑
幸徳 秋水(こうとく しゅうすい、明治4年9月23日(1871年11月5日) - 明治44年(1911年)1月24日)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、アナキスト。本名は、幸徳傳次郎。秋水は、師にあたる中江兆民から与えられたもの。大逆事件で処刑された12名の1人。
目次
1 経歴
2 著作史料
3 参考文献
4 関連項目
5 外部リンク
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高知県幡多郡中村町(現在の高知県四万十市)に生まれる。幸徳家は、酒造業と薬種業を営む町の有力者で、元々は「幸徳井(かでい)」という姓で、陰陽道をよくする陰陽師の家であった。なお、妻の父は幕末の尊王攘夷運動で活躍し、足利三代木像梟首事件の首謀者とされている国学者の師岡正胤である。
明治20年(1887年)に上京し、同郷の中江兆民の門弟となる。新聞記者をめざし、『自由新聞』などに勤めた。明治31年(1898年)より『万朝報』記者となる。
国民英学会などで学び、明治33年(1900年)8月30日、旧自由党系政党の憲政党がかつての政敵である藩閥の伊藤博文と結び立憲政友会を結成したことを受け、万朝報に「嗚呼自由党死すや」と書き記した「自由党を祭る文」と題した批判論文を発表した。
明治34年(1901年)、『廿世紀之怪物帝国主義』を刊行し帝国主義を道徳的な見地から批判。これは当時、国際的に見ても先進的なものであった。また、この年田中正造が足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴したときの直訴状は、まず幸徳が書き、田中が手を加えたものである(田中が直訴状の執筆を依頼した者たちが後難をおそれてしりごみする中、幸徳だけが断らずに書いたといわれる)。
明治36年(1903年)、日露戦争開戦直前、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『万朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させたため、盟友の堺利彦、キリスト教徒の内村鑑三と共に発行元の朝報社を退社する。幸徳と堺は非戦論を訴えつづけるために平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。
明治38年(1905年)に渡米し、クロポトキンなどの影響を受け、無政府主義に傾く。こうして伝統的権威を否定し、労働者による直接行動を提唱するようになった。
明治43年(1910年)6月、「大逆事件(幸徳事件)」において逮捕。翌年に死刑判決を受け、他の死刑囚とともに異例の早さで処刑された。これには当時すでに国内や海外の一部から批判があり、社会主義者たちを一網打尽にしたかった当局が仕組んだ謀略である、というのが現在ではほぼ定説になっている。(厳密には管野須賀子ら数名による皇族暗殺計画の準備はあったといえるので、全てが事実無根の謀略というわけではない。しかし、幸徳ら無関係の人間が多数死刑になったことは、重大な冤罪といえる)
著作史料
飛鳥井雅道編・解説『幸徳秋水集』(『近代日本思想大系』第13巻)、筑摩書房、1975年11月。
伊藤整編『幸徳秋水』(『日本の名著』第44巻)、中央公論社、1970年9月。
大逆事件の真実をあきらかにする会編『大逆帖−堺氏蔵』、大逆事件の真実をあきらかにする会、1981年1月。
塩田庄兵衛編『幸徳秋水の日記と書簡』増補決定版、未來社、1990年4月。
中島及『幸徳秋水漢詩評釈』、高知市民図書館、1978年3月。
山泉進編・解題『幸徳秋水』(平民社資料センター監修『平民社百年コレクション』第1巻)、論創社、2002年10月。ISBN 4-8460-0353-1
『幸徳秋水文集』(『解放群書』 第7編)、解放社、1926年。
『幸徳秋水集』(『改造文庫覆刻版』第1期)、改造図書出版販売、1977年2月。
幸徳秋水全集編集委員会編『幸徳秋水全集』全9巻・別巻2巻・補巻、明治文献、1968年−1972年。
山泉進校注『帝国主義』(『岩波文庫』青版125-1)、岩波書店、2004年6月。ISBN 4-00-331251-1
参考文献
秋山清・大沢正道『幸徳・大杉・石川−日本アナキストの原像』、北日本出版社、1971年。
飛鳥井雅道『幸徳秋水−直接行動論の源流』(『中公新書』193)、中央公論社、1969年6月。
絲屋寿雄著『幸徳秋水伝』、三一書房、1950年。
絲屋寿雄著『幸徳秋水研究』、青木書店、1967年。
絲屋寿雄著『幸徳秋水』(『Century books』『人と思想』)、清水書院、1973年。
絲屋寿雄『幸徳秋水研究』増訂版(吉田精一監修『近代作家研究叢書』53)、日本図書センター、1987年10月。
大河内一男『幸徳秋水と片山潜−明治の社会主義』(『講談社現代新書』)、講談社、1972年。