平資盛凡例
時代平安時代末期
生誕保元3年(1158年)、
もしくは応保元年(1161年)
死没寿永4年3月24日(1185年4月25日)
墓所赤間神宮の七盛塚
官位従五位下、越前守、従五位上、侍従、
正五位下、右近衛権少将、従四位下、
従四位上、正四位下、右近衛権中将、
蔵人頭、従三位
氏族桓武平氏維衡流
父母平重盛、藤原親盛の娘
兄弟維盛、資盛、清経、有盛、
師盛、忠房、宗実
妻正室:藤原基家の娘、
建礼門院右京大夫
子覚盛、盛綱(盛国)?
平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の武将。平重盛の次男、母は藤原親盛の娘。位階は従三位まで昇叙。
和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。叔母である建礼門院に仕える優れた歌人の建礼門院右京大夫と恋仲であった。平氏一門の全盛期に、当時13歳(もしくは10歳)[1]の資盛が関わった殿下乗合事件は、『平家物語』に「これこそ、平家の悪行のはじまり」として描かれている。
目次
1 生涯
1.1 一門都落ち
2 遺言
3 官歴
4 脚注
5 関連項目
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嘉応2年(1170年)7月3日、摂政・松殿基房の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。これを知った父・重盛が基房に対して徹底的な報復を行っている(殿下乗合事件[2])。この時の九条兼実の日記『玉葉』には資盛を「嫡男」と記されており、また同年12月以前においては異母兄であるとされている維盛よりも官位で上回っていた事から当初は重盛の嫡男として扱われていたと見られている。
治承4年(1180年)年5月の以仁王の挙兵に際して、叔父の知盛、重衡、兄の維盛らと出陣し、源頼政と宇治平等院で戦いこれを滅ぼした。同年12月、知盛とともに近江国へ出陣して山本義経を破る。
寿永2年(1183年)7月、平氏は源義仲に敗れ都落ちを余儀なくされる。『愚管抄』によれば、このときに資盛は寵愛されていた後白河法皇に都に残る許しを求めて拒絶されている。『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛の家人であった豊後国の緒方惟義の説得工作に向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。
寿永3年(1184年)正月、一時勢力を回復した平氏は摂津国・福原まで進出。正月末に義仲を滅ぼした源頼朝の代官源範頼・源義経の軍勢が平氏追討に向かう。資盛は弟の有盛、師盛、忠房と播磨国三草山に陣を置くが源義経の奇襲を受け、讃岐国・屋島へ敗走した(三草山の戦い)。その直後の2月7日、一ノ谷の戦いで平氏は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。
同年3月、一ノ谷の合戦前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。すでに弟の清経が豊後国で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死にしている。末弟の忠房は維盛の戦線離脱の際に同行していたと見られる。清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送り、兄弟の死について「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです)と詠んでいる。これが右京大夫への最後の便りとなった。赤間神宮の七盛塚。