平維盛凡例
時代平安時代末期
生誕保元3年(1158年)
死没寿永3年3月28日(1184年5月10日)
改名維盛、浄円
別名惟盛、権亮三位中将、桜梅少将、光源氏
戒名千手院殿前三位中将義山貞公大居士
墓所十津川五百瀬(旧南望山宝蔵寺)、
静岡県芝川町上稲子西ヶ谷戸、
紀伊半島に他多数
官位従五位下、美濃権守、従五位上、右近権少将、
丹波権介、正五位下、中宮権亮、従四位下、
伊予権介、従四位上、中宮権亮、正四位下、
右近権中将、従三位、伊予権守、解官
氏族桓武平氏維衡流
父母平重盛、母:不詳
兄弟維盛、資盛、清経、有盛、師盛、忠房、宗実
妻新大納言(藤原成親次女)
子高清(六代)、夜叉御前
平 維盛(たいら の これもり)は、平安時代末期の武将。平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男[1]。
平氏一門の嫡流であり、美貌の貴公子として宮廷にある時には光源氏の再来と称された。治承・寿永の乱において大将軍として出陣するが、武将としての力量はなく、富士川の戦い・倶利伽羅峠の戦いの二大決戦で壊滅的な敗北を喫する。父の早世もあって一門の中では孤立気味であり、平氏一門が都を落ちたのちに戦線を離脱、那智の沖で入水自殺した。
目次
1 生涯
1.1 青海波
1.2 富士川の戦い
1.3 倶利伽羅峠の戦いと都落ち
2 脚注
3 官歴
4 関連項目
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安元2年(1176年)3月4日、19歳の時に後白河法皇50歳の祝賀で、烏帽子に桜の枝、梅の枝を挿して「青海波」を舞い、その美しさから桜梅少将と呼ばれる。青海波の様子は『玉葉』や『安元御賀日記』などにも詳細に記されており、臨席した藤原隆房はその様子を「維盛少将出でて落蹲(らくそん)入綾をまふ、青色のうえのきぬ、すほうのうへの袴にはへたる顔の色、おももち、けしき、あたり匂いみち、みる人ただならず、心にくくなつかしきさまは、かざしの桜にぞことならぬ」と書いている。また『建礼門院右京大夫集』ではその姿を光源氏にたとえている。
治承3年(1179年)7月、清盛の後継者と目されていた父・重盛が病死し、叔父の宗盛が平氏の棟梁となると、維盛ら重盛の息子達は平氏一門で微妙な立場となる。維盛の妻が鹿ヶ谷の陰謀で殺害された藤原成親の娘である事も、維盛の立場を苦しいものにしていた。
治承4年(1180年)9月5日、源頼朝の挙兵に際し、頼朝追討軍の総大将となる。出発しようとする維盛と日が悪いので忌むべきだという侍大将の上総介忠清で内輪もめとなり、結局出発は月末まで遅れた。出陣する23歳の大将維盛の武者姿は、絵にも描けぬ美しさだったという。
東海道を下る追討軍は、出発が伸びている間に各地の源氏が次々と兵を挙げ、進軍している情報が広まっていたために兵員が思うように集まらず、夏の凶作で糧食の調達もままならなかった。何とか兵員を増やしながら駿河国に到着、追討軍の到着を待って甲斐源氏(武田軍)討伐に向かった平氏側の駿河国目代は、富士川の麓で武田軍と合戦となり惨敗する。10月17日富士川の戦いの前日、当時の戦闘の作法として武田軍が維盛の陣に送ってきた書状の「かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう」という不敵な内容に忠清が激怒し、兵法に反して使者2人の首を斬った(『山槐記』『玉葉』『吉記』)。10月18日、富士川を挟んで武田軍と向き合う平氏軍は『平家物語』では7万の大軍となっているが、実際には4千騎程度で、逃亡や休息中に敵軍へ投降するなど残兵は千?2千騎ほどになっていた。鎌倉の頼朝も大軍を率いて向かっており、もはや平氏軍に勝ち目はなかった。
維盛は引き退くつもりはなかったが、忠清は再三撤退を主張、もはや士気を失っている兵達もそれに賛同しており、維盛は撤退を余儀なくされる。富士川の陣から撤収の命が出た夜、富士沼に集まっていた数万羽の水鳥がいっせいに飛び立ち、その羽音を敵の夜襲と勘違いした平氏の軍勢はあわてふためき総崩れとなって敗走する。(ただし、羽音によって源氏方の武田軍の夜襲を察知して一時撤退を計ろうとしたところ、不意の命令に混乱して壊走したという説もある)11月、維盛はわずか10騎程度の兵で命からがら京へ逃げ帰った。(『山槐記』『玉葉』など)
祖父・清盛は維盛の醜態に激怒し、なぜ敵に骸を晒してでも戦わなかったのか、おめおめと逃げ帰ってきたのは家の恥であるとして維盛が京に入る事を禁じた。
同年3月、尾張国墨俣川に平重衡、忠度と共に源行家を破り、従二位右中将・蔵人頭となり小松中将と呼ばれる。