平知盛
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平知盛凡例


時代平安時代末期
生誕仁平2年(1152年
死没寿永4年3月24日1185年4月25日
別名新中納言
墓所赤間神宮、横倉山(高知県高岡郡越知町
官位蔵人従五位下武蔵守左兵衛権佐
従五位上、正五位下、春宮大進、中務権大輔
右近衛権少将従四位上、左近衛権中将、
正四位下従三位丹波権守、春宮権大夫、
右兵衛督、正三位、左兵衛督、新院別当、
御厩別当、参議権中納言従二位
氏族桓武平氏維衡
父母平清盛平時子
兄弟重盛基盛宗盛、知盛、重衡徳子、盛子、
寛子、知度清房
八条院女房治部卿局
知章知忠知宗、娘(藤原範茂室)

平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の武将平清盛の四男。母は平時子。同母兄弟に平宗盛平重衡建礼門院がいる。官位従二位行権中納言。世に新中納言と称された。
目次

1 生涯

2 碇知盛

3 官歴

4 関連項目

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生涯

平氏の全盛期に清盛の正室・時子を母として生まれ、わずか8歳で従五位下となり、その後も栄進していく。知盛は武蔵国の国司・知行国主として、同国から多数の平氏家人を獲得した。武蔵は源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。兄の重盛・宗盛は後白河に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく「入道相国最愛の息子」(『玉葉』安元2年12月5日条)と呼ばれた。治承4年(1180年)12月、美濃近江で源氏が叛乱を起こした時には総大将として鎮圧にあたった。知盛はその後、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされた。

治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去する。清盛の後は同母兄の宗盛が継いだ。知盛は、同母弟の重衡とともに宗盛を補佐した。同年10月の平氏遠征軍の編成は、北陸道は知度・清房(宗盛の異母弟)・重衡・資盛、東海道・東山道は維盛・清経(重盛の子)、熊野は頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。寿永2年(1183年)2月、宗盛が内大臣を辞任する際、宗盛のもとに知盛・重衡・頼盛・時忠・親宗が集まっている(『吉記』2月27日条)。知盛が、平氏一門において中枢を担っていたことがうかがえる。

寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、知盛は宗盛とともに都落ちを決める。翌寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いで大敗して子の知章を失った。元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた知盛は、海へ身を投げ自害した。享年34。

なお、平氏滅亡後に反乱を起こす平知忠は、知盛の息子である。


碇知盛みもすそ川公園の平知盛像

このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。

これに想を得た歌舞伎義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛」(いかりとももり)とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。


官歴

※日付=旧暦

保元4年のち改元して平治元年(1159年)(8歳)
正月7日:蔵人正月21日:従五位下

平治2年のち改元して永暦元年(1160年)(9歳)
2月28日:武蔵守

応保2年(1162年)(11歳)
9月28日:左兵衛権佐

長寛2年(1164年)(13歳)
正月5日:従五位上

永万2年のち改元して仁安元年(1166年)(15歳)
8月27日:正五位下10月10日:春宮大進(東宮・憲仁親王)10月21日:中務権大輔。春宮大進・武蔵守如元右近衛権少将

仁安2年(1167年)(16歳)
2月11日:従四位下。武蔵守如元12月30日:武蔵守を辞任(後任・平知重)

仁安3年(1168年)(17歳)
正月6日:従四位上(平盛子御給)2月19日:新帝(高倉天皇)昇殿3月23日:左近衛権中将8月4日:正四位下(後白河上皇御給)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki