平泉 澄(ひらいずみ きよし、 1895年(明治28年)2月16日 - 1984年(昭和59年)2月18日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学教授。白山神社第3代宮司、名誉宮司。皇学館大学学事顧問。文学博士。号は布布木の屋・寒林子・白山隠士。専門は日本中世史。福井県出身。
戦前戦中に、いわゆる皇国史観を主導し、政治・社会・学界に大きな影響を与えた。
目次
1 略年譜
2 略伝
2.1 少年時代
2.2 東京帝大学生時代
2.3 東京帝大の教員に
2.4 欧米外遊と東大教授就任
2.5 政界・軍部とのかかわり
2.6 第二次世界大戦と東京帝大教授辞職
2.7 戦後の平泉
3 評価
4 著書
4.1 単著
4.2 編著
4.3 監修
4.4 校訂
5 逸話
6 家族 親族
7 系譜
8 研究文献
9 関連人物
9.1 師弟交友
9.2 門下
10 リンク
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略年譜
1895年(明治28年)、誕生。
1901年(明治34年)、龍池尋常小学校入学。
1905年(明治38年)、成器高等小学校入学。
1907年(明治40年)、大野中学校入学。
1912年(大正元年)、第四高等学校入学。
1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科入学。
1918年(大正7年)、東京帝国大学文科大学国史学科卒業。
1921年(大正10年)、文部省宗教制度調査嘱託。
1923年(大正12年)、東京帝国大学講師。
1926年(大正15年)、東京帝国大学助教授。論文「中世に於ける社寺と社会の関係」により文学博士の学位を取得。
1930年(昭和5年)、欧米外遊。翌年、帰国。
1935年(昭和10年)、東京帝国大学教授。
1945年(昭和20年)、太平洋戦争敗戦に伴い、東京帝国大学教授を辞任。
1948年(昭和23年)、公職追放。1952年(昭和27年)に至り、追放解除。
1984年(昭和59年)、死去(89歳)。
1895年(明治28年)2月16日(戸籍は2月15日)、福井県大野郡平泉寺村平泉寺(現在の福井県勝山市)に生まれる。父は平泉寺白山神社第2代宮司の平泉恰合(大畠清右衛門の子、初代宮司の平泉須賀波の養子)、母は勝山藩士島田将恕の娘、貞子。「澄」の名は、白山の開祖である泰澄の1字をとって名付けられたといわれている。幼少の頃より古典に親しみ、父より『源平盛衰記』や『古事記』、母より百人一首を読み聞かせられた。
1901年(明治34年)4月、龍池尋常小学校に入学。尋常小学校入学当初は、人とあまり触れ合うことがなかったため、女子児童に脅かされては泣き出すという子どもであったが、在学中の1904年(明治37年)に「露国討たざるべからず」の1文を作る。これが確認できる平泉の最初の著作である。
1905年(明治38年)4月、成器高等小学校に進学し、1907年(明治40年)4月に大野中学校に入学した。読書が好きな少年で、『源氏物語』『太閤記』などの日本の古典のほかに、『唐詩選』『孟子』などの中国の古典も読んだという。この頃より歴史の考証に興味を抱き、1912年(明治45年)のはじめに、平泉が生まれた白山神社の歴史を纏めた『白山神史』を編み、友人の十時進らと朝倉氏の史跡探訪に出かけたりした。また、弁論活動に積極的に参加し、後年文筆・講演活動に邁進する平泉の下地が、このころに形成された。また、1911年(明治44年)に、十時進とともに意見書(「秋霜帖」)を大野中学校長に提出。これは、とある反国家主義的な教師の罷免を求めたものである。
1912年(明治45年)、優秀な成績で大野中学校を卒業した平泉は、無試験で石川県金沢市の第四高等学校に入学した。入学当初は、故郷の福井を郷愁し、悩みぬいた末、当時流行した人格主義に染まりかけていたが、やがてそれからも脱し、中学時代から続けた歴史の研究にますます熱中することとなる。当時の高等学校の学生は、人格主義・理想主義を経てマルクス主義に変化する者が多かったが、平泉は人格主義に傾くことなく、中学時代に形成した伝統主義的価値観に回帰していった。
1915年(大正4年)、東京帝国大学文科大学国史学科に入学。