平岡 梓(ひらおか あずさ、1895年(明治27年)10月12日 - 1976年(昭和51年)12月16日)は日本の農商務官僚。作家三島由紀夫の父として有名。
目次
1 人物像
2 略歴
3 参考文献
4 関連項目
5 脚注
6 外部リンク
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人物像
梓の名は、定太郎の恩師小野梓に由来する。旧制開成中学校在学中、父親の出世を周囲に自慢して「うちはもうすぐ華族だ」と吹聴し顰蹙を買うも、父親が疑獄事件を起して逮捕され失脚したため、生家没落の辛酸をなめる。
帝大時代の同期に岸信介や三輪寿壮、我妻栄がいた。優秀な成績で高等文官試験に合格するも、独特の臭味ある人柄が面接試験の担当官に嫌われて大蔵省への道が閉ざされ、農商務省(現・農林水産省)に入る。ここでは同期の岸信介とは対照的に、仕事を怠け廊下をうろうろする無能な官吏として通り、“廊下トンビ”と呼ばれていた。
農林省で梓の7年後輩の楠見義男は「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。…入って一ヶ月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”といわれた。[1]」。「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」と述べている[2]。
文学に熱中する息子・公威(三島由紀夫)の姿を苦々しく思った梓は、執筆中の公威の自室に突如侵入し、書きかけの原稿を破り捨て「この不良息子め!」と叱り飛ばした。公威は、梓が大阪に単身赴任した時期を利用して、存分に小説を執筆した。
梓は1944年、公威が大学に入る際にも文学部への進学に猛反対して法学部に進ませた(三島は後年、このことを梓に感謝した。法学部での教育が自らの文学に類稀な論理性を与えたと信じていたからである。これは、三島文学に対する梓唯一の貢献として知られている)。
戦時中は当時の軍国主義的風潮に染まりきってナチス・ドイツを賛美していた梓だったが、敗戦によって価値観が一変し、「これからは文化の時代だから精を出して小説を書け」と三島を激励するまでになった。
水産局長を最後に農林省を辞した後は、いわゆる天下りで会社社長などを歴任。かねがね大蔵省に劣等感を抱いていた梓は三島を大蔵省に入れたが、1948年、三島が勤めを辞めて小説に専念したいと申し出た時には、「朝日新聞に連載が持てるような一流の作家になること」を条件として渋々ながら退職を許可した。
風貌が遠い親戚の永井荷風を思わせたことから、三島からは蔭で荷風先生と呼ばれていた。晩年は、近場の食堂の食べ歩きを趣味としていた。三島の死後、文藝春秋から回想録『伜・三島由紀夫』を上梓。たくまざるブラックユーモアと露悪的な筆致が話題を呼んだ。
1965年、期外として東京弁護士会に登録(第9682号)したが、弁護士業務はおこなわなかった。
略歴
1895年10月12日:東京に内務官僚平岡定太郎、ナツの長男として生まれる。本籍地は兵庫県印南郡志方村(現・加古川市)
旧制開成中学、2浪、旧制第一高等学校を経て
1920年7月:東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業 7月:農商務属 鉱山局
1922年4月:特許局事務官 審判部審判課兼化学電気部
1923年10月:兼農商務事務官 食料局
1925年4月:専任農林事務官 米穀部経理課長
1932年11月:専任農林書記官
1934年4月:米穀局経理課長
1935年7月:米穀局外地課長
1937年7月:水産局漁政課長
1937年10月:大阪営林局長
1941年1月:農林省水産局長
参考文献
猪瀬直樹 『ペルソナ 三島由紀夫伝』(小学館、2001年) 120-137頁、154-157頁、161-164頁、172-173頁
秦郁彦 『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年)
関連項目
岸信介
脚注^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 124頁
^ 『ペルソナ 三島由紀夫伝』 154頁
外部リンク
⇒平岡梓の墓
カテゴリ: 日本の農林官僚 | 日本の官僚 (農商務省・商工省) | 三島由紀夫 | 日本の弁護士 | 東京都出身の人物 | 兵庫県出身の人物 | 1895年生 | 1976年没
更新日時:2008年7月10日(木)11:36
取得日時:2008/10/08 19:15