巫女、または神子(みこ、ふじょ)とは、主として日本(大和)の神に仕える女性のこと。
古来、神の言葉(神託)を得て他の者に伝えることが役割とされていたが、近代に入ってからは神社に於ける女性の奉仕区分として変容した。柳田国男・中山太郎の分類によると、概ね朝廷の神和(かんなぎ)系巫女と民間の口寄(くちよせ)系巫女に分けられる。
本項目では歴史上の巫女、神社・祭り・結婚式場の巫女に限定する。巫女 (作品・趣味・サブカルチャー)も参照。巫女@生田神社(神戸市中央区)
目次
1 歴史
1.1 古代
1.2 中世・近世
1.3 近代
1.4 現代
1.4.1 本職巫女
1.4.2 助勤巫女
1.4.3 神事・祭りの巫女
1.4.4 巫女の装束
1.4.5 巫女と処女性
1.5 寺院の巫女
1.6 歴史上の主な巫女
2 海外のシャーマン
3 関連項目
4 注
5 外部リンク
//
古代の呪術的な宗教観の元では、その祭祀の形態から神の存在は特定の場所に常在する存在ではなく、神を呼ぶという行為が行われていたと考えられ、自らの身体に神を降ろす、いわゆる神がかり(神霊の憑依)の儀式が行われたとされる。これを掌る女性の登場が巫女の初発と考えられる。古語では巫(ふ・かんなぎ)と呼称された。なお、男性でその様な祭祀に仕える者は覡と称された。
『古事記』・『日本書紀』に記される日本神話では、天岩戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、また、『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)記述があり、この鬼道や惑の正確な意味・内容については不明ではあるものの、古代に呪術的な儀式が女性の手によって行われた事が伺える。平安時代には神祇官に「御巫(みかんなぎ)」や天鈿女命の子孫とされた?女君(『貞観儀式』)の官職が置かれ、神楽を舞っていたと推定されている。平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)はまさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。
中世以後各地の有力な神社では巫女による神楽の奉納が恒例となった。神楽も変容し、旧来の神がかり的要素に加えて依頼者の現世利益の祈願を併せて目的としていたとされている。修験者と巫女が結びついて神社に常駐せずに祈祷や鎮魂を請負った、民間習俗の色彩が濃い巫女も現れるようになった。現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、このことが基であると考えられる。歌舞伎の元である「かぶきおどり」を生み出したとされる出雲阿国(いずものおくに)は出雲大社の巫女であったという説もあり、古代の呪術的な動作が神事芸能として洗練され、一般芸能として民間に広く伝播していった経過を伺い知る例として捉えられる。
梓巫女(あずさみこ)は官の免許を受け、1回50文から100文の料金での口寄を稼業としていた。芸妓・娼妓と同様の児買いの奴隷で、売り上げは頭領が手にした。風体は異様で、黒塗りの箱を風呂敷に包んで背負い、営業時には箱を自分の前に置いて行う。口寄の対象が生者(たとえばペットの猫など)の場合は青葉を用い、死者の場合は紙縒(こより)を用いた。両肘を箱につけてあごを支え、数珠を鳴らし、呪文を唱え、半眠の状態で口寄を行った。箱のなかには土人形の天神、御幣、梓弓が安置してあった。近代になって、人身売買に等しいものとして禁止された[1]。
明治維新を迎え、神社・祭祀制度の復古的な抜本的見直しが為された。1871年(明治4年)には神祇省に御巫(みかんなぎ)が置かれ、宮内省の元刀自が御巫の職務に当たった。民間習俗の巫女に関しては、1873年(明治6年)には神霊の憑依などによって託宣を得る行為が教部省によって全面的に禁止された。⇒ ⇒s:梓巫市子並憑祈祷孤下ケ等ノ所業禁止ノ件 これは巫女禁断令と通称される。このような禁止措置の背景として、復古的な神道観による神社制度の組織化によるものである一方、文明開化による旧来の習俗文化を否定する動きの影響も伺える。
禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女はほぼ廃業となったが、中には神社、或いは教派神道に所属することによって姿・形を変えて活動を続ける者もいた。また、神職の補助的な立場で巫女を雇用する神社が出始めた。後、春日大社の富田光美らが、巫女の神道における重要性を唱えて巫女舞の存続を訴えると同時に八乙女と呼ばれる巫女達の舞をより洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くした。また、宮内省の楽師であった多忠朝は神社祭祀に於ける日本神話に基づく神楽舞の重要性を主張し、其れが認められる形で浦安の舞を制作した。