巨済市
位置
各種表記
ハングル:???
韓国における漢字:巨濟市
片仮名転写:コジェ=シ
ローマ字転写:Geoje-si
情報
国: 大韓民国
面積:401.53km2
総人口:208,772人(2008年1月末)
上位自治体:慶尚南道
下位行政区画:1邑6洞9面
行政区域分類コード:
巨済市の木:チョウセンマツ
巨済市の花:ツバキ
巨済市の鳥:カモメ
自治体公式サイト: ⇒巨済市
巨済市(コジェし)は大韓民国慶尚南道の南海上に位置する市。巨済島と付属の島から構成される。
目次
1 地理
2 歴史
2.1 年表
3 行政
4 産業
5 教育
6 交通
6.1 道路
6.2 港湾
7 文化・観光
8 施設
9 姉妹都市
10 著名な出身者
11 関連項目
12 註
13 外部リンク
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主島・巨済島は韓国第2位の面積を持つ島。鎮海湾を挟んで北に鎮海市・馬山市がある。西には固城半島先端部の統営市が狭い見乃梁海峡を隔てて位置しており、巨済島西部と巨済大橋(740m)・新巨済大橋(940m)で結ばれている。また、東北方に約9km隔てて加徳島(釜山広域市江西区)がある。長承浦・玉浦―釜山間に1日24往復の高速旅客船があるなど、鎮海湾内・釜山方面への海上交通が発達している。加徳島との間に巨加大橋(8.2km)を建設中で、2010年には釜山との間に陸上交通路が開かれる予定である。
東南方向には朝鮮海峡(対馬海峡西水道)を隔てて日本の対馬(下島)がある。巨済島―対馬間は朝鮮海峡が最も狭まる海域の一つである。
市の歴史的な中心は西北沿岸部の現市庁所在地・新県邑。東海岸の長承浦一帯は植民地期には漁業によって、また大韓民国成立後は玉浦に作られた造船所によって、島内でいち早い発達を遂げてきた。市の人口も新県邑・長承浦の両地域に集中する。
巨済島を参照
古来、巨済島は日本と朝鮮との交通の要衝であった。市の公式サイトでは、三韓時代の弁韓の一国で「倭と界を接す」[1]と記された?盧国を歴史的淵源に求めている。もっとも、?盧国の比定地には諸説あり、巨済島とする説は定説ではない。この島には、新羅時代に巨済郡という名の行政機関が置かれるようになった。
高麗時代、元寇に先立つ1267年、モンゴルの使臣殷弘・黒的が巨済島から日本への海路の険しさを見、「大洋万里、風濤の天を蹴る」[2]と報告している。1275年の弘安の役では合浦(馬山)を出航した東路軍の軍船が巨済島で半月ほど停泊した。15世紀には倭寇の侵入を受け、朝鮮王朝は島を一時放棄している。
16世紀末の文禄・慶長の役(壬辰倭乱)では巨済島は日本軍の拠点となり、諸将が島内に倭城を築いた。文禄の役の名目上の大将である豊臣秀勝はこの島で病死している。付近の海上では玉浦海戦、巨済島海戦(漆川梁海戦)、閑山島海戦が戦われた。
近代に入ると、1889年に日本朝鮮両国通漁規則が結ばれ、東海岸の長承浦や旧助羅などに日本人漁民が移住した。長承浦の湾口にあった通称「入佐村」は大規模な移住漁村であった。
韓国併合後の1914年に行われた地方行政区画の再編により巨済郡は廃止され、統営郡に編入される。
朝鮮戦争が勃発すると島は後方基地となり、兵士の訓練所や避難民収容施設が設置された。島内にはアメリカ軍が設置した巨済島捕虜収容所があり、巨済島事件の舞台となった。
戦争中の1951年に郡の再設置に関する法律が公布され、1953年に巨済郡が再設置された。1970年代に2つの大きな造船所が設けられ、巨済は造船の島として発展を遂げる。1989年には長承浦邑が先んじて市制を施行して巨済郡を離脱するが、1995年に長承浦市と巨済郡が合併し、巨済市となった。
年表
677年 ? 裳郡が設置される。
757年 ? 裳郡が巨済郡に改称される。
983年 ? 岐城県と称する。
1414年 ? 倭寇の侵入により、朝鮮王朝は巨済島を放棄。
1422年 ? 倭寇が終息し巨済島の統治を回復、翌年巨済県を設置。
1489年 ? 巨済府と改称。
1895年 ? 巨済郡と改称。
1914年3月18日 ? 巨済郡が廃止され、統営郡に編入される。
1935年10月1日 ? 二運面が長承浦邑に昇格。