嵯峨天皇
第52代天皇
在位期間:809年5月8日 - 823年5月29日
在位中の時代平安時代
在位中の年号大同
弘仁
在位中の首都京都
在位中の皇居大内裏
諱神野
出生786年10月3日
死没842年8月24日
陵墓嵯峨山上陵
皇子女正良親王(仁明天皇)
正子内親王
有智子内親王
源潔姫
源全姫
源信
源常
源弘
源定
源融 他多数
皇后橘嘉智子
父親桓武天皇
母親藤原乙牟漏
嵯峨天皇(さがてんのう、延暦5年9月7日(786年10月3日) - 承和9年7月15日(842年8月24日))は、日本の第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) - 弘仁14年4月16日(823年5月29日))。 名は神野(かみの)。
目次
1 系図
2 系譜
3 略歴
4 后妃・皇子女
5 伝承
6 関連項目
7 外部リンク
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(50)桓武天皇 (51)平城天皇 高岳親王 (在原)行平
伊予親王 阿保親王 (在原)業平
万多親王 (54)仁明天皇
(52)嵯峨天皇 有智子内親王
(源)信
〔嵯峨源氏へ〕
(源)融
〔嵯峨源氏へ〕
(源)潔姫
(藤原良房妻)
(53)淳和天皇 恒貞親王
葛原親王 (平)高棟 維範
高見王 (平)高望〔桓武平氏へ〕
(良岑)安世 遍昭 素性
桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。
兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、亡父・桓武天皇の意向が働いたといわれている。
このような事情から即位後に甥にあたる高岳親王を皇太子としたが、翌年810年に平城天皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたためか今度はかねてから臣籍降下を望んでいた異母弟の大伴親王(淳和天皇)を強引に皇太弟に立ててしまった(これが承和の変の遠因となる)。
ともあれ、以後表面上は平穏な治世を送り宮廷の文化が盛んな時期(弘仁文化)を過ごした。818年、弘仁格を発布して死刑を廃止した。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで347年間続く。だが、当時は農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、817年より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。820年には当時朝廷内で大きな権勢を誇っていた藤原氏の有力者4人(藤原内麻呂・冬嗣親子、藤原緒嗣、藤原園人)が揃って封戸を返上(計15,000戸)している(更に緒嗣は淳和天皇時代の825年に2,000戸を追加返上した)。