崇神天皇
第10代天皇
在位期間:紀元前97年2月17日 - 紀元前29年1月9日
在位中の時代古墳時代
在位中の皇居磯城瑞籬宮
別名御間城入彦五十瓊殖天皇
御肇國天皇
御眞木入日子印恵命
所知初國御眞木天皇
美萬貴天皇
出生紀元前148年
死没紀元前29年1月9日
陵墓山邊道勾岡上陵
皇子女垂仁天皇
彦五十狭茅命
国方姫命
千千衝倭姫命
倭彦命
五十日鶴彦命
豊城入彦命
豊鍬入姫命
大入杵命
八坂入彦命
渟名城入媛命
十市瓊入媛命
皇后御間城姫
父親開化天皇
母親伊香色謎命
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代の天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代の日本の学術上、実在の可能性がある程度見込める初めての天皇である。
目次
1 人物
2 諡号・追号・異名
3 系譜
4 皇居
5 略歴
6 陵墓・霊廟
7 在位年と西暦との対照表
8 関連項目
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記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が未だ少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。
後述の諡号から、崇神天皇をもって初代天皇とする説や崇神天皇と神武天皇を同一人物と見る説がある。
欠史八代を史実の反映と見る立場からは、書紀の記述によると、神武天皇が畿内で即位後は畿内周辺の狭い領域のことしか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて、日本の広範囲の出来事の記述が出てくるので、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。
諡号・追号・異名
御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
所知初國御眞木天皇(はつくにしらししすめらみこと) - 『古事記』
御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記』
ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。
これについては、神武の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえる国という具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武は崇神より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。それ故に国(ヤマト)を初めて治められたのは崇神であると考えられる。
『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。
崇神の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。
崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名(諱)をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。
開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)
皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命女
皇子:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇)
皇子:彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと) - 記の伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)に当たるか
皇女:国方姫命(くにかたひめのみこと)
皇女:千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
皇子:倭彦命(やまとひこのみこと)
皇子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと) - 記には伊賀比売命(いかひめのみこと)で女性
妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女
皇子:豊城入彦命(とよきいりびこのみこと) - 上毛野君・下毛野君等祖