岡山藩(おかやまはん)は備前一国及び備中国の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(岡山県岡山市)。殆どの期間は池田氏が治めた。支藩に鴨方藩と生坂藩がある。後楽園と岡山城
目次
1 略史
2 家老
3 歴代藩主
3.1 宇喜多(うきた)家
3.2 小早川(こばやかわ)家
3.3 池田(いけだ)家
3.4 池田(いけだ)家〔宗家〕
4 支藩
4.1 鴨方藩
4.1.1 歴代藩主
4.2 生坂藩
4.2.1 歴代藩主
5 関連事項
6 外部リンク
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慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに於いて西軍方の主力となった豊臣家五大老の一人で岡山城主であった宇喜多秀家が改易となり、西軍から寝返り勝敗の要となった小早川秀秋が入封し51万石で立藩した。慶長7年(1602年)秀秋は無嗣子で没したため廃絶。
翌、慶長8年(1603年)姫路藩主・池田輝政の二男・忠継が28万石で入封した。慶長18年(1613年)約10万石の加増を受け38万石となる。元和元年(1615年)忠継が無嗣子で没し、弟の淡路国由良城主・忠雄が31万5千石で入封。寛永9年(1632年)忠雄の没後、嫡子・光仲は幼少のため山陽筋の重要な拠点である岡山を任せるには荷が重いとして、鳥取藩に国替えとなった。
代わって従兄弟の池田光政が鳥取より31万5千石で入封。以後、明治まで光政の家系が岡山藩を治めることとなった。
このように池田氏が優遇された背景には徳川家康の娘・督姫が輝政に嫁ぎ忠継・忠雄がその子であったことが大きい。
光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び江戸時代初期の三名君として称されている。陽明学者・熊沢蕃山を登用、寛永18年(1641年)全国に先駆けて藩校「花畠教場」を開校した。また、寛文10年(1670年)には日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」(備前市、講堂は現在・国宝)も開いた。土木面では津田永忠を登用し干拓などの新田開発・百間川(旭川放水路)の開鑿などの治水を行った。
光政の子で次の藩主・綱政は元禄13年 (1700年)に偕楽園(水戸市)、兼六園(金沢市)と共に日本三名園とされる大名庭園・後楽園を完成させている。
幕末には9代藩主・茂政は徳川慶喜が実兄であったが倒幕派とはならず隠居した。代わって支藩・鴨方藩主・政詮(岡山藩主となり章政と改める)を明治元年(1868年)に藩主に据え倒幕派への旗幟を鮮明にした。
なお、池田家は明治17年(1884年)に侯爵となり華族に列せられた。
大藩であったため池田家の家老は軒並み1万石超と大名並みの石高を誇り、領地に陣屋を構えていた。
伊木(いぎ)氏(備前虫明領3万3000石・重臣)筆頭家老、維新後男爵
伊木忠貞?忠親=忠義?忠興=忠知=忠福=忠真=忠識=忠順=忠直=忠正=忠澄?忠恭=忠愛
池田氏(備前天城領3万2000石、藩主一門)維新後男爵
池田由之(池田輝政の甥)?由成(大石内蔵助の祖父)?由孝?由勝=保教=政純=政喬?政孝=政徳?政昭?政和