山車
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この項目では、祭の際に使われる出し物について説明しています。植物の山車については「ヤマグルマ」を、将棋の駒については「京将棋#置換駒とその動き」をご覧ください。
日本三大曳の一つ祇園祭の長刀鉾(2017年7月17日撮影)日本三大曳山の一つ(秩父夜祭の山車)日本三大曳山の一つ(高山祭の屋台)本来の「山」の意味が残る山あげ祭の大山赤坂氷川祭での山車巡行氷川神社(2010年9月18日撮影)

山車(だし、さんしゃ)は、日本祭礼の際に引いたり担いだりする出し物の総称。花や人形などで豪華な装飾が施されていることが多い。地方によって呼称や形式が異なり、曳山(ひきやま)・祭屋台(まつりやたい、単に屋台とも)などとも称される。神幸祭などの行事では、この山車が町の中をねり歩き行列となることもある。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}厳密に言うと[要出典]、山の形状を模したり、上に木を立てて山の象徴としたものを「山」、それらがない屋根の付いた曳き物が「屋台」と分類される[1]。ただし、実際は祭礼ごとに形状に関係なく、名称がどちらかに統一されている場合が多い。
山車の別名

山車(だし)の語源は、神殿境内の外に出す出し物であるからとする説と依り代である髯籠(ひげこ)を出していたからだとする説などがある。山車は「出し物」全般を指すが、車の字がついていることから曳き山を指すことが多い。

地方によって様々な呼ばれ方をする。
山のつくもの

やま(山、山車、?)、ひきやま(曳山、曳き山)、かきやま(舁き山、担ぎ山)。

やまほこ(山鉾)。台の上に山の形の造り物をのせ、
長刀?などを立てたもの[2]。厄神は鉾のようなキラキラしたものに集まるという言い伝えから[3]

やまかさ(山笠)(北部九州地方)

やたい(山車)(山形県新庄市、最上地方)

車のつくもの(上記を除く)

さいしゃ(
祭車)(三重県桑名市地方)

おくるま(御車)(知多地方尾張地方)

笠のつくもの(上記を除く)

かさぼこ(笠鉾)(
秩父地方など)

おかさ (お笠)(和歌山県田辺市

台のつくもの

やたい(屋台)(主に
長野県静岡県遠州岐阜県飛騨など中部地方神奈川県小田原市および兵庫県播磨地方、岩手県内陸部、沿岸内陸部。)

たいこだい(太鼓台)(主に瀬戸内地方で愛媛県新居浜市西条市大阪府八尾市堺市など)

だいがく (台楽、台額)(戦前まで大阪市南部一帯にあったが、2015年現在は生根神社の2基のみ[4])

だんじり

だんじりもしくはだんぢりとして、おもに山車を指す西日本特有の呼称。

地車、台尻、壇尻、車楽、段尻[5]

主に近畿地方・中国地方・四国地方などの祭礼で登場し、「曳きだんじり」と「担ぎだんじり」の2種類に大別される。地方によっては、太鼓台ふとん太鼓などをこう呼ぶ場合もある。
山(山車の原型)

山(やま)は自然の山岳を模して造られた依り代で、祭礼などで用いられる。山車の原型。

古来の民間信仰では、神は山岳や山頂の岩や木を依り代として天から降臨するという考えがあり、山上や山麓に斎場を設け祭祀が行われていた。これらは山岳信仰として、或いは山岳を神体とする神社として残っている。代表的な例では大神神社(三輪山)などがあり、小さな神社でも山麓にあるものは山頂に磐座神木を持つことが多い。

村落が発達すると平野部においても祭祀が行われるようになり、臨時の斎場が設けられた。このときにも降臨を仰ぐために依り代を立てており、これが恒久化して現在の神社のような施設ができる。この依り代の1つに、山岳を模して造られた山(やま、造り山・飾り山)がある。恒久的である神殿内部の依り代と並行して、この山は神の降臨を表現する、或いは、再確認する臨時の依り代として祭礼などで用いられるようになる。元来は実際に盛り土(築山)をし、祈願していたが、後に祭壇を築山と見做すようになる。

記録に残っている最初の山は『古事記』の垂仁天皇の条にある「青葉山」で、出雲国造の祖である岐比佐都美が葦原色男(大国主)を祀る庭として青葉で飾った山を造ったとある。

本来の意味の残る希有な例として、栃木県那須烏山市の「烏山の山あげ行事」(通称「山あげ祭」、国の重要無形民俗文化財)がある。この祭では元来、実際に土を盛った築山を街に作り奉納していたが、経済の隆盛とともに地元特産の和紙(程村紙)を使って木材と竹で作った枠に貼付け「山をあげる」ようになった。その大きさは最大で幅は道幅一杯の7m、高さは10m以上に及ぶ。現在は奥行き100mに渡って複数の「山」と舞台装置を組み合わせ、余興(所作狂言、神楽など)が奉納されている。また、これらの「山」は他所の曳山などと同様、町中を巡行する。全て手作りの幅7m、高さ10m以上、奥行き100mの山と舞台装置一式を毎回組み立てて、余興を催し、解体、移動を一日最大6回程度、3日間の祭礼で最大18回程度に渡ってくり返し、移動総延長は20kmにも及ぶ。6町年番制で町ごとに山を含む舞台装置は全て異なるが、全ての「山」には滝が描かれ、全ての町にあまねく山の恵みが行き渡るように、との願いが込められている。昭和初期までは祭りのたびに山を焼き、灰を縁起物として配っていた。

体形的な祭礼の物で記録に残っている最初の山では、『続日本後紀天長10年(833年)11月戊申条、仁明天皇大嘗会に曳きたてられた「標山(しるしのやま・ひょうのやま・しめやま)」がある。標山には移動神座のような役割があり、山車の原型であるといわれている。大嘗会には中断された時期があり、このときに標山は廃止されたようである。

民間の祭礼にも同じようなものが登場し、形態は山との関連と運行形態から一時的に祭壇のような築山を設ける「置き山」、引く形式の「曳き山」、担ぐ形式の「舁き山」などと呼ばれ、また「だし」とも呼ばれるが、その漢字には山車が使われた。現在の祭礼では、巡行されない置き山は数が少なく、巡行される山車がほとんどである。

富山県 射水市放生津八幡宮高岡市二上射水神社では古代信仰の形態である築山行事が現在も行われている。放生津八幡宮祭礼曳山ならびに御車山は、この築山行事の形態を移動できるように発展させたものと考えられており、起源はよくわかっていないが、放生津八幡宮の築山神事は江戸時代初期より行われていたことが、1721年享保6年)の「東八幡宮記録」や「築山古老伝記」に記録されている。

放生津八幡宮では大きな松の木、二上射水神社では大きな3本の杉の木の前に臨時の築山(祭壇)を設置し神様を迎え入れる。どちらの築山も祭壇が2段になっており、下段には共にそれぞれ面をつけた仏門守護の四天王持国天増長天広目天多聞天)を配し、上段中央には共に唐破風屋根の神殿()の上に、放生津八幡宮は鬼女(狂女)の面に白髪を振り乱し、金襴の打掛をはおり、御幣を取付けた長い竹竿を持った姥神(オンババともいわれる)を、二上射水神社は斧を振り上げた天狗の主神を祀り神事を執り行う。なおいずれの築山行事も神事が終わるとそれぞれのが暴れるとされる言い伝えにより、築山は大急ぎで解体される。

この行事は能登にある石動山(せきどうざん又はいするぎやま)の伊須流岐比古(いするぎひこ)神社でも行われていたが明治期に廃絶、富山県内でも放生津八幡宮と、明治期に休止となり1956年昭和31年)より復活した二上射水神社で行われているだけであり、いずれも1982年(昭和57年)1月18日に富山県の無形民俗文化財に指定され、放生津八幡宮の築山は「放生津八幡宮祭の曳山・築山行事」として、2021年令和3年)3月11日に国の重要無形民俗文化財に指定されている全国的にも稀有な行事である。なお3ケ所の主神の見た目から、放生津の「足なし」、二上山の「手なし」、石動山の「口なし」と云われてきた。


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