山本 富士子(やまもと ふじこ。1931年12月11日 - )は日本の俳優。天下の美女と謳われ、昭和時代の美人の代名詞であった。大阪府和泉市の阪和線沿線出身。その象徴的な名前である山本富士子は本名。愛称はお富士さん。
目次
1 来歴・人物
2 エピソード
3 主な受章・受賞歴
4 出演作品
4.1 映画
4.2 舞台
4.3 テレビ番組
5 著書
6 イベント
7 関連書籍
8 関連項目
//
大阪市西区立売堀生まれ。母は船場の綿花問屋山重の主人の長女。泉大津市助松に引越し浜寺小学校に入学。少女時代、花柳禄寿門下の花柳禄之助について日本舞踊を習う。大阪府立大津高女(現・大阪府立泉大津高等学校)→京都府立第一高女(現・京都府立鴨沂高等学校)卒業。
1950年、読売新聞社、中部日本新聞社、西日本新聞社の三社が主催する第1回ミス日本(700人近い応募者があった)の栄冠に輝く。その類い稀な美貌は審査員達の間でも話題の的で、ミス日本選定は満場一致で短時間で終了したという逸話が残っている。この第1回ミス日本コンテストは終戦から間もない当時の日本の明るい話題だった。審査や授賞式の模様を伝えたニュースフィルム(モノクロ)が現存している。1951年、ミス日本として公式訪米し、アメリカでもその美貌が話題になった。ミス日本に選ばれた後、映画界からスカウトが相次ぐが彼女には女優になる意思はなかった。しかし、悩んだ末、姉・喜代子の「これからの女性は仕事を持つことよ」という言葉に女優になる決心をする。ちなみに、その喜代子も薬剤師の仕事に就き、富士子と同じく家庭を持った後も仕事を続けた。
1953年、映画会社各社の争奪戦の末、大映に入社。契約内容は「1本あたりのギャラはスライド制で1年目が10万円、2年目が20万円、3年目が30万円と意外に安いかわりに3年たったら自由契約」であったが、3年後の自由契約の約束は守られなかった。同年、映画「花の講道館」で長谷川一夫の相手役としてデビュー。戦後ミスコン出身女優第1号と言われている。
1954年に「金色夜叉」(島耕二監督、根上淳共演)、1955年には「婦系図 湯島の白梅」(衣笠貞之助監督、鶴田浩二共演)と後世に語り継がれる映画のヒロインとして活躍。1956年の映画「夜の河」(吉村公三郎監督、上原謙共演)が大ヒットし、美人というだけでなく演技者としても高い評価を受けるようになる。以後も大映の看板女優として大活躍し、日本を代表する女優となる。
1963年1月、大映との契約更改を月末に控え、前年と同じ条件の「年に大映2本、他社2本出演」の契約を主張したが受け入れられず、1月末の契約切れを待ってフリーを主張。大映の社長・永田雅一は烈火の如く怒り、彼女を解雇し五社協定にかけると脅した。それに対し山本はフリー宣言をし、同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で「そんなことで映画に出られなくなっても仕方ありません。自分の立場は自分で守ります。その方が生きがいがあるし、人間的であると思います。」と語り、永田社長に詫びを入れろとの周囲の声に耳を貸さなかった。それに対し永田は彼女を一方的に解雇し、五社協定を使って他社や独立プロの映画や舞台にも出演できなくした。この事は当時の国会でも取り上げられ、世間でも「人権蹂躙」と非難の声が上がった。看板女優の彼女を失った大映の映画館は空席が目立つようになり、大映倒産そして日本映画界全体の斜陽化の遠因となった。この後、彼女はテレビドラマに活路を求め、「山本富士子アワー」などに主演して好評を博した後、舞台に新境地を開き、現在まで舞台一筋で主演を続けている。
尚、五社協定から45年が経過した2008年の今も映画界には復帰していない。ただ1999年にNHKで放送のテレビ番組「映像美の巨匠 市川崑」の中で、市川崑より「細雪」への出演依頼があったものの、スケジュールの都合で実現できなかったと明かしている。結局、岸惠子が演じることとなったが、公開になった映画を観て、出演できなかったことを後悔したと語っている。
1962年、作曲家の山本丈晴氏(旧姓・古屋)と結婚。一男あり。
エピソード
鋭い感性を持ち、美女だろうと女性には大変厳しいことで知られる作家の三島由紀夫は自分の小説「にっぽん製」(1953年)の映画化の時、主演する山本と会って話をした。三島はその時の山本の印象を「外見だけでなく内面も素晴らしい女性」と絶賛している。
山本の実家には男兄弟がなく、また、姉も結婚し他家に嫁いでいたので、夫・丈晴は婿養子となり『山本』姓を名乗るようになった。
山本は日本銀行の就職試験をうけるも不採用となった経験がある。理由は長年不明であったが、後年、当時を知る日銀関係者がさる雑誌のインタビューで『適性など能力には全く問題がなかった。ただあの美貌ゆえ、男子行員達が落ち着かなくなるのではと心配されて採用が見送られた。』と明らかにした。
インタビューで質問に対して、否定の意味の「とんでもございません」を初めて使った人物であるとされる(日本語の誤用#不適切な敬語表現)。“良家の子女でミスにもなった彼女が使うのだから正しいはず”と広まった。
山本富士子の実家は南大阪では知られた素封家であり、富士子たち娘の花嫁道具としてうなるほどの着物を買い溜めていた。ところが戦後、米軍用住宅として屋敷は接収、その中の家財道具としてそれらの着物も没収され、二度と戻ってこなかった。その時に落胆する両親の姿を見て、富士子は「女性も手に職を持たなければ」と実感させられたという。(参考文献 『私の履歴書』(日本経済新聞連載))