山本五十六
1884年4月4日 - 1943年4月18日
元帥海軍大将 山本五十六
生誕地新潟県長岡市
死没地ソロモン諸島ブーゲンビル島
所属組織大日本帝国海軍
軍歴1901年 ? 1943年
最終階級元帥海軍大将
指揮第一航空戦隊司令官
海軍次官
第一艦隊司令長官
連合艦隊司令長官
戦闘日露戦争
第二次世界大戦(大東亜戦争)
真珠湾攻撃
ミッドウェー海戦
賞罰正三位・大勲位・功一級
剣付柏葉騎士鉄十字章
廟靖国神社
山本の国葬 葬儀委員長は米内光政
山本 五十六(やまもと いそろく、1884年4月4日 - 1943年(昭和18年)4月18日)は、大日本帝国海軍の軍人。26、27代連合艦隊司令長官。位階勲等は元帥海軍大将・正三位・大勲位・功一級。
目次
1 生涯
1.1 年譜
2 山本五十六の評価
3 山本家の相続
4 逸話
4.1 人物像に関するもの
4.2 主張・意見に関するもの
4.3 戦死に関するもの
4.4 その他
5 山本に関する史跡
6 系譜
7 注釈
8 描いた小説、映画、テレビドラマ、漫画
9 演じた俳優
10 外部リンク
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明治17年(1884年)、新潟県長岡市で、旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男として生まれる。その時の父親の年齢から「五十六」と名付けられた(ちなみに、母親も45歳と高齢だった)。当時のフルネームは高野五十六。長岡町立阪之上尋常小学校、旧制新潟県立長岡中学校卒業後、明治34年(1901年)に海軍兵学校に次席入学。
明治37年(1904年)、海軍兵学校を卒業。席次は7番。その直後日露戦争が勃発し、日本海海戦において少尉候補生として乗艦していた装甲巡洋艦「日進」の艦上で、左手の人差指と中指を失う重傷を負う。
大正4年(1915年)、牧野忠篤子爵の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する(→「山本家の相続」の節を参照)。以後山本五十六を名乗る。大正5年(1916年)、海軍大学校を卒業。
海軍次官を経て、昭和14年(1939年)8月30日、 中将の山本は、聯合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。次官当時からの懸案事項であった日独伊三国軍事同盟に最後まで反対する。航空機による時代の到来を予期し、大和の建造に反対し日米開戦にも反対していた。
またアメリカとの国力の違いも認識しており、昭和15年(1940年)、当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると「余は日米戦争の場合、(山本)大将の見込みの如何を問ふた処、それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」(原文のまま)[1][2]と発言している。この発言は、国力差の見地で言われたと伝わっているが、本人が定年退職を1年後に控えているため、自分が指揮をとれば戦争に勝てるという意味であったとの説もある[要出典]。