屯田兵
完全無料エロボイス♪
「声」は興奮しますよ!

[Wikipedia|▼Menu]

屯田兵(とんでんへい)は、明治時代北海道の警備と開拓にあたった兵士とその部隊である。明治7年(1874年)に制度が設けられ、翌年から実施、明治37年(1904年)に廃止された。
目次

1 軌跡

1.1 屯田兵の開始

1.2 前期屯田の進展

1.3 後期屯田の展開

1.4 屯田兵の廃止


2 生活と任務

3 戦歴

3.1 西南戦争

3.2 日清戦争

3.3 日露戦争


4 屯田兵の組織

4.1 関連諸法令

4.2 屯田兵の所管

4.3 大隊と中隊


5 北海道遺産

6 関連項目

7 参考文献

8 外部リンク

//


軌跡


屯田兵の開始

屯田制を北海道に実施するという考えは、明治初年から様々な方面に生まれていた。そのおそらく最初のものは、徳川家の遺臣を移して北方警備と開墾に従事させようとする榎本武揚の考えで、彼はこの計画を掲げて新政府と箱館戦争を戦った。

政府内の提案としては、明治3年(1870年)11月に開拓使が行なったものがはじめである。ついで西郷隆盛が明治4年(1871年)から明治6年(1873年)にかけて士族による北方警備と開拓を主唱した。西郷は計画の実現をみることなく下野したが、彼の影響で開拓次官の黒田清隆が1873年11月に太政官に屯田制を建議した。樺太と北海道の兵備の必要と、そのための費用を憂え、「今略屯田の制に倣い、民を移して之に充て、且耕し且守るときは、開拓の業封疆の守り両ながら其便を得ん」というものであった。黒田が考えたのも士族の活用であったが、彼の場合旧松前藩と東北諸藩の貧窮士族を想定していた。

太政官は黒田の提案に賛成し、明治7年(1874年)に屯田兵例則を定めた。明治8年(1875年)5月、札幌郊外の琴似兵村への入地で、屯田が開始された。


前期屯田の進展

初期の屯田兵募集は原則として士族が対象であった。身分や年齢の制限を満たすための便法として養子縁組を行なうものがあり、屯田養子といった。実のところ募集当局に平民を拒む意思はなかったので、ここから問題が起きることはなかった。後に士族原則が取り払われると、新兵の身分比はほぼ人口中の身分比に等しくなった。よって、前期を士族屯田、後期を平民屯田として時代区分することがある。

屯田ははじめ札幌近くの石狩地方に展開し、しだいに内陸や道東部などに範囲を広げた。屯田兵は、二百余戸の中隊を一つの単位として兵村を作った。中隊はいくつか集まって大隊を編成したが、大隊レベルの編成はしばしば変わった。はじめ、屯田兵は開拓使の屯田事務局(後に屯田事務係)の下に置かれた。開拓使が廃止されることになると、陸軍省に移管された。陸軍省のもとで屯田兵の所管組織は屯田兵本部、屯田兵司令部と改称し、一般の部隊の編制に近づいた。屯田兵本部長、屯田兵司令、そして後に設置される第7師団長は、永山武四郎が務めた。

徴兵制だった当時の日本において、屯田兵は長期勤務の志願兵制という点でも特殊であった。法制上は兵卒から士官への昇進の規定はなかったが、実際には昇進者もあり、後期屯田の幹部となった。

屯田兵は明治10年(1877年)に西南戦争に参加して戦闘を重ねた。このとき、増援のために屯田予備兵が編成されたが、訓練中に戦争が終結に向かったため、こちらは実戦を経験しなかった。戦後、屯田予備兵は普段は生業に就き、戦時と年1度の演習時にのみ召集される兵士として、そのまま常置された。予備兵は明治14年(1881年)に廃止された。


後期屯田の展開

開拓使の廃止後、太政官大書記官の金子堅太郎伊藤博文の指示で北海道の実情調査を実施した。その報告である「北海道三県巡視復命書」の中で、金子は屯田兵の拡大を提案した。山縣有朋井上馨も北海道を視察して屯田兵を重視すべきとの印象を得た。永山武四郎本部長はロシアでコサック兵の制度を調べ、これを参考にして屯田兵拡大の具体策を立てた。帰国した永山が、明治21年(1888年6月15日に、屯田兵本部長を兼ねつつ北海道庁長官に就任すると、屯田兵の改革・増設計画が急速に進んだ。

明治22年(1889年)2月に、明治26年(1893年)までに20中隊を増設する計画が発表された。何度かの法令改正で、兵員の将来と権利を保障する制度が導入された。募集方法が変えられ、もはや士族出身者を積極採用することはなくなった。屯田兵に与えられる土地は従来の1.5倍となり、ほかに共同利用の公有地が用意された。服役期間は現役3年、予備役4年、後備役13年の計20年、満40才までに限られた。兵村には、兵員から選挙で選ばれる兵村会が設けられた。

後期屯田では前期と異なり、札幌周辺から上川、空知へ重点が移された。過去の経験の蓄積、良好な土地選定、農民出身者が多かったことなど、好条件が重なり、後期屯田の経営は好成績を収めた。


屯田兵の廃止

後期屯田の実施時には、既に北海道の開拓が相当に進展しており、大規模な入植に適した土地が少なくなっていた。またこの頃、北海道の人口は徴兵制で兵士を集めることが可能な水準に達しつつあり、第七師団創設につながった。


今読みたいのですね
わかります

[次ページ]
[オプション/リンク一覧]
[記事の検索]
[おまかせ表示]
[トップページ]
[ニュースをチェック!]
[列車運行情報]
Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen