屋島の戦い
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屋島の戦い

屋島の古戦場
戦争:治承・寿永の乱
年月日:1185年(元暦2年/寿永4年)2月
場所:讃岐国 屋島 (現 高松市)
結果:源氏軍の勝利
交戦勢力
源氏平氏
指揮官
源義経平宗盛
戦力
不明不明
損害
不明不明
治承・寿永の乱
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屋島の戦い(やしまのたたかい)は、平安時代末期の元暦2年/寿永4年 (1185年)2月に讃岐国屋島で行われた戦いである。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
目次

1 背景

2 範頼の山陽道・九州遠征

3 合戦の経過

3.1 出港準備と逆櫓論争

3.2 奇襲

3.3 扇の的と弓流し


4 戦後

5 近年の研究

6 関連項目

7 参考文献

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背景

寿永2年(1183年)7月、源義仲に敗れた平氏安徳天皇三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れたが、在地の武士たちが抵抗してここからも追われてしまった。平氏はしばらく船で流浪していたが、阿波国田口成良に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置くことができた。

寿永3年(1184年)1月20日、鎌倉源頼朝と義仲の抗争が起き、義仲は滅びた(宇治川の戦い)。その間に平氏は勢力を立て直して、摂津国福原まで進出するが、頼朝の弟の範頼義経に攻められて大敗を喫した(一ノ谷の戦い)。この戦いで平氏は一門の多くを失う大打撃を蒙った。

平氏は屋島に内裏を置いて本拠とし、平知盛を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。平氏はこの拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。一方の鎌倉方は水軍を保有しておらず休戦が続いた。

後白河法皇は三種の神器の返還と源平の和平を打診させる使者を平宗盛へ送るが、宗盛はこれを拒否した。

一ノ谷の戦い後、範頼は鎌倉へ帰還し、義経は頼朝の代官としてに留まった。頼朝は後白河法皇に義経を総大将として平氏を討伐したい旨の意見を奏請した。

同年6月、頼朝は朝廷に奏上して範頼を三河、一族の源広綱駿河守、平賀義信武蔵守に任官させた。一ノ谷の戦いで最大の殊勲を上げた義経は任官から外されており、これは古来、頼朝が義経の軍事的天才を警戒したとも、義経の忠誠心を試したとも言われている。

同年7月、後白河法皇は安徳天皇を廃し、その弟の尊成親王を三種の神器がないまま即位させた。後鳥羽天皇である。これにより、朝廷と平氏は完全に決裂した。


範頼の山陽道・九州遠征源範頼の遠征関係図 ⇒拡大

同年7月、頼朝は先に後白河法皇に意見奏請した義経ではなく、範頼に平氏討伐を命じた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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