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小田原の役
小田原城
戦争:
年月日:天正18年(1590年)2月?7月
場所:相模国小田原、関東一帯
結果:豊臣軍の勝利 北条氏は降伏。
交戦勢力
豊臣軍北条軍
指揮官
豊臣秀吉 北条氏政
戦力
本隊 161,135
船手衆(水軍)20,630
北国衆 35,000
(諸説あり)82,000(諸説あり)
損害
不明不明
豊臣秀吉の戦闘
備中高松城 - 山崎 - 賤ヶ岳 - 小牧・長久手 - 紀州 - 四国 - 富山 - 九州 - 小田原 - 文禄・慶長の役
小田原の役(おだわらのえき)は、1590年(天正18年)に豊臣秀吉が後北条氏の居城小田原城を包囲し、北条氏政・北条氏直父子を降した戦役。小田原城の攻囲戦だけでなく、平行して行われた北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。小田原攻め、小田原征伐とも呼ばれる。また、従来は「小田原評定」という諺に代表されるように後北条氏を低く見る傾向があったが、研究が進んで新しい事実も出てきている。
目次
1 前史
2 戦争準備
3 戦争開始
3.1 前哨戦?小田原包囲
3.2 支城攻略戦
3.3 小田原開城へ
4 小田原陥落後
5 関連項目
6 参考文献
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戦国時代に新興大名として台頭した後北条氏は武蔵国進出を志向して両上杉氏を駆逐し、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏との三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。
戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する甲斐の武田信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、越後の上杉謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると関東平定を進め、天正年間には相模、伊豆から関東一円に及ぶ最大領国を達成する。
武田氏では信玄が西上作戦の途上に急死し、越後では謙信の死以降は領土を脅かすような強敵は近隣には不在であり、後北条氏は全盛期を迎えていた。1580年(天正8年)、氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門の宗家に対する影響力を封じるため実質的当主として君臨していた。
1582年(天正10年)、甲越同盟により武田氏と絶交していた後北条氏は織田信長の武田征伐に参加するも、氏政の妹(武田勝頼の妻・桂林院)がいたせいであろうか、慎重になりすぎて実質何もしないまま終わった。本能寺の変で信長が横死した後、滝川一益を蹴散らした神流川の戦いを経て甲斐の支配を目論んでいた徳川家康との間に武田遺領を巡る天正壬午の乱が勃発するが、徳川方の依田・真田の小荷駄襲撃に苦しめられた後北条氏は、家康の娘・督姫を氏直に嫁がせ、武田遺領のうち後北条氏が上野、徳川氏が甲斐・信濃を実質領有することで講和が成立した。もっとも、徳川傘下だった武田遺臣の真田氏は勢力範囲の一つであった沼田が後北条氏の勢力と著しく近接することになった。
徳川氏との対決を一応収めた後北条氏は、転じて関東諸豪の制圧に全力を傾けることとなる。後北条氏の圧迫を受けた佐竹義重らは秀吉に近づき、豊臣政権側としても、次第に後北条氏を警戒するようになる。そんな最中、真田氏との領土紛争を起こした後北条氏は一旦は秀吉の仲裁によって、後北条氏が沼田城を領有して紛争地域の大半を後北条領とする事で和解する事になった。その和解の条件として秀吉は氏政・氏直のどちらかの上洛を要求した(これは徳川家康や島津義久・義弘兄弟が豊臣政権に従った時にも条件の一つとして行われており、上洛以後は過去の敵対行為は一切不問とされている)。だが、後北条・真田双方ともその内部には仲裁案に不満を抱く者もおり、北条父子の上洛の話は実現しなかった。代わりに板部岡江雪斎を使者として送り、一旦は氏政上洛という返事もあった。