小原 直(おはら なおし、1877年(明治10年)1月24日 - 1967年(昭和42年)9月8日)は、日本の検察官。岡田内閣、阿部内閣、第5次吉田内閣の閣僚。法務大臣(第5代)。弁護士。新潟県長岡市出身。
目次
1 人物
2 略歴
3 著作
4 関連項目
//
新潟県古志郡長岡本町に、士族田中敬次郎の三男として生まれる。その後、元会津藩士小原朝忠の養子となり『小原』姓を名乗る。旧制新潟県立長岡中学校、共立学校、旧制第一高等学校、東京帝国大学法科大学法律学科を経て、1902年(明治35年)7月に司法省採用となり、東京地方裁判所判事に任用される。当時の上司倉富勇三郎から見込まれ、千葉地方裁判所検事として赴任。以後検事の道を進む。
小原は、検察官在任中に日本製糖汚職事件、幸徳事件、シーメンス事件、大浦事件、八幡製鉄所汚職事件、朴烈事件などを担当、特に、幸徳事件では宮下太吉と菅野スガの取り調べを担当した。また、シーメンス事件では主任検事を担当した。
田中義一内閣の原嘉道司法大臣の下で司法次官に抜擢されるが、以後、濱口、犬養、斎藤内閣の司法次官を務める。また、この次期に各省次官合同会議で外務次官吉田茂と親交を結び、戦後死去するまで交友関係が続いた。
岡田内閣の司法大臣在任中、帝人事件、天皇機関説事件、二・二六事件が起き、特に、二・二六事件では、総理秘書官迫水久常から、反乱軍に殺害されたとされていた岡田の生存がいち早く伝えられ、総理の生存が確認されるや、岡田啓介総理の参内を、不敬を理由に反対する他の一部閣僚の反対を押し切り強く主張した。しかし、次期廣田内閣で留任が望まれていたにも拘らず、陸軍から陸軍大臣内定者寺内寿一の名において国体明徴問題などの処置に難ありとして組閣への干渉を受け、吉田茂、下村宏と共に入閣が不可能となる。
阿部内閣では、第一次近衛内閣・平沼内閣の塩野季彦前司法大臣の反対を受け司法大臣になれず、代わりに内務大臣兼厚生大臣に任じられた。これは、当時の司法界における経済検事系列の小原閥に対する思想検事系列の塩野閥の対立の結果と見られている。
閣僚退任後は弁護士業を開業し戦後に至る。
戦後、指揮権発動で辞職に追い込まれた犬養健法務大臣の後任・加藤鐐五郎の後を継ぎ、第五次吉田内閣で法務大臣を務めた。
略歴
1877年(明治10年)1月24日 - 生
1883年(明治16年)4月1日 - 古志郡立阪之上校入学
1890年(明治23年)4月1日 - 新潟県立長岡中学校入学
1892年(明治25年)4月1日 - 共立学校編入
1895年(明治28年)7月1日 - 第一高等学第一部 無試験入学
1898年(明治31年)7月1日 - 東京帝國大学法科大学法律学科入学
1902年(明治35年)7月1日 - 東京帝國大学法科大学法律学科卒業
7月28日 - 司法省試補 静岡地方裁判所勤務
1905年(明治37年)2月 - 東京地方裁判所判事
10月28日 - 千葉地方裁判所検事
1908年(明治41年)3月31日 - 東京区裁判所検事兼東京地方裁判所検事
1927年(昭和2年)4月20日 - 田中内閣司法次官
1934年(昭和9年)7月8日 - 岡田内閣司法大臣
1936年(昭和11年)3月9日 - 内閣総辞職 免 司法大臣
1939年(昭和14年)8月30日 - 阿部内閣内務大臣兼厚生大臣
11月28日 - 免 厚生大臣兼務
1940年(昭和15年)1月14日 - 内閣総辞職 免 内務大臣
1945年(昭和20年)11月2日 - 司法制度改正審議会委員
1954年(昭和29年)6月19日 - 第5次吉田内閣法務大臣