小倉城
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この項目では福岡県北九州市小倉北区にある小倉城について記述しています。埼玉県比企郡ときがわ町にある小倉城については小倉城 (武蔵国)をご覧ください。

小倉城
福岡県
小倉城庭園と復興天守
通称勝山城、指月城
城郭構造輪郭式平城
天守構造連結式層塔型(1609年)
(鉄筋コンクリート造復興(1959年)
築城主細川忠興
築城年慶長7年(1602年
主な改修者小笠原氏
主な城主細川氏、小笠原氏
廃城年慶応2年(1866年
遺構石垣、堀
指定文化財なし
再建造物天守、模擬櫓、庭園
位置 ⇒北緯33度53分4.0秒
東経130度52分27.32秒

 ・編・歴 
復興天守復興着見櫓(漬物処「糠蔵」)

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区にある城跡。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。
目次

1 構造

2 天守

3 歴史

4 その他

4.1 交通


5 関連項目

6 外部リンク

7 脚注

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構造

梯郭式平城。城郭の中心に天守のあった本丸と松丸、北の丸。それらを囲い込むように二の丸、三の丸が配され、城の南側の虎口には稜保式の出張りを作った。建物は、野面積みの石垣の上に大天守と平の小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していた。城下は、城の東を流れる紫川を天然のとして活用し城内に町を取り込んだ総構えを採っていた。現在、一部の石垣・堀が残り、天守・櫓・庭園と大名屋敷が再建されている。

ちなみに従来の構造は北九州いのちのたび博物館にある全体模型でうかがい知ることができる。


天守

天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守であった。大天守は最上階外廻縁が幕府への遠慮により重数を少なく見せるために、また、雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りである。最上層の入母屋破風を除き、破風の一切無いものであった。

天保8年(1837年)に失火によって御殿と共に焼失し、天守台には「御三階」と呼ばれる建築を建て、天守の代用としていたとされる[1]。現在見られる天守は昭和30年代に『豊前小倉御天守記』『小倉城絵巻』『延享三年巡見上使御答書』等を基に鉄筋コンクリート構造によって復興された。設計考証は藤岡通夫である。破風などは地元観光面の考慮からの要望によって付加された大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。


歴史

最初の築城年代は明らかではないが文永年間(1264年?74年)に緒方大膳亮帷重が居城した、というのが初見とされる。

元徳2年(1330年)には黒崎土佐守景経が居城、のち大内氏の持城となる。

嘉吉2年(1442年)に太宰少弐頼冬が攻略をかける。

文明年間(1469年?86年)には菊池氏が居城とする。

1587年豊臣秀吉の家臣であった森勝信豊前国小倉6万石(一説に10万石)を与えられ、小倉城に入城。この当時の城の様子については、記録がなく詳しく分かっていない。なお、子の勝永にも豊前国に1万石(4万石とも)を与えられ、この際に秀吉の計らいによって、元の姓である森に変えて中国地方の太守・毛利氏の姓を名乗らせている。毛利勝信・勝永父子は関ヶ原の戦いで西軍に付き改易となる。

1600年、関ヶ原の戦いの論功行賞で細川忠興が豊前国を領する。初め中津城に入城するが、1602年から7年かけて40万石(正確には39万9千石)の大大名に相応しい居城として、毛利氏の小倉城を改築し、そこに居を構える。なおこの時城下町も整備され紫川で東西に二分し、西は主として武家屋敷町、東は町人や下級武士達の町とした。

1632年細川家肥後国に移ると、譜代大名として播磨国から小笠原忠真が15万石を領し、小倉城にはいる。以後、小倉藩藩主の居城となる。

1837年、本丸御殿、天守を焼失し、それ以後天守は再建されず。

1866年、第二次長州征伐で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決める。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、藩主は熊本城に退避した。

1867年、長州藩と小倉藩で和平が成立。しかし、小倉城は灰燼に帰していたので、以後、藩庁は香春にあった奉行所に置かれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki