安馬 公平
四股名安馬 公平
本名Davaanyam Byambadorj
生年月日1984年4月14日
出身モンゴル・ウランバートル
身長185cm
体重124kg
所属部屋安治川部屋→伊勢ヶ濱部屋
成績
現在の番付東関脇
最高位東関脇
生涯戦歴303勝227敗1休(46場所)
幕内戦歴188勝156敗1休(23場所)
優勝十両優勝1回
三段目優勝1回
序ノ口優勝1回
賞殊勲賞3回、敢闘賞1回、技能賞4回
データ
初土俵2001年1月場所
入幕2004年11月場所
備考
金星1個(朝青龍)
2008年8月1日現在
表・話・編・歴
安馬 公平(あま こうへい、1984年4月14日 - )は、モンゴル国ウランバートル市出身(呼び出しではモンゴル・ゴビアルタイ出身、父の出身地)で伊勢ヶ濱部屋(入門時は安治川部屋)所属の現役大相撲力士。本名 Даваанямын Бямбадорж (Davaanyam Byambadorj:ダワーニャム ビャンバドルジ)。身長185cm、体重124kg。最高位は東関脇(2008年3月場所-7月場所)。得意手は突っ張り、右四つ、寄り、突き出し、首投げ、インタビューの際の口癖は、「お客さんを喜ばせる激しい相撲をとりたい」。愛称はアマ。好きな言葉は「なんでやねん」。父はブフ(モンゴル相撲)の国家ザーン(大相撲での関脇に相当)。
目次
1 来歴
2 エピソード
3 略歴
4 幕内での場所別成績
5 主な成績
6 各段優勝
7 三賞・金星
8 TV出演
9 関連項目
10 外部リンク
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幕内最軽量の力士。尊敬している力士は初代貴ノ花。稽古熱心な力士として知られており、ビデオで初代貴ノ花の相撲を研究している。
体の重心が低い所にあり立ち合いが鋭いため、読まれて逆にやられる危険性がある変化をする必要が少なく、正統派で真っ向勝負の相撲を心がけていると見られることが多い。しかし細かく挙げると実際には2005年9月場所の露鵬、琴奨菊、2006年9月場所、2008年1月場所の稀勢の里戦など、立合いの変化も用いている。2005年11月場所9日目の琴欧州戦では、負けたものの「変化はしたくなかった。これからも対戦する相手だから」と語っているが、インタビュー等における発言は、対戦相手の変化に対する警戒心を薄れさせ変化の成功率を上げるための手段でもある。貴ノ花も横綱北の湖を立合いの変化で破ったことがあるが、このとき北の湖に「他の力士なら変化もあるだろうと警戒するが、貴ノ花関は今まで一度も変化したことがないから、全く無防備だった」と言わしめたことで知られる。
非常に強気な面が目立つ力士であり、物怖じしない言動が随所に見られる。2007年9月場所では、新入幕にして優勝争いを展開する新鋭の豪栄道の挑戦を送り吊り落としの大技で退け「三役をなめられては困る」と三役常連のプライドを示した。同年11月場所にも「全部勝ちたい。負ける相手はいないと思っている」と強気一辺倒の姿勢で臨み、見事2場所連続の二桁勝利を挙げて大関取りの足固めをした。2008年1月場所前の横審稽古総見でも、復帰した朝青龍と白鵬の両横綱の申し合いにただ一人割って入り、朝青龍にぶつかっていく向こう意気の強さを見せるなどした。このような前向きな姿勢と場所ごとに力強さを増す取り口などから、次の大関候補の期待が高まっている。
2008年5月場所8日目の若ノ鵬戦の決まり手はうっちゃりであったが、「決まり手は櫓投げにして欲しかったねえ」と北の富士勝昭に言わしめるダイナミックな一番であった。さらに10日目には横綱白鵬も豪快な上手投げで破った。
同学年の白鵬にライバル意識を持っており、白鵬の横綱昇進後は安馬の4勝2敗と勝ち越している。
琴奨菊と相性が悪く、4勝13敗と大きく負け越している。本人は「苦手意識はない。稽古場では勝てる。相手の廻しが固すぎるからだ」と発言している。2008年5月場所13日目に久々に勝ち、連敗を止めた。実力的には上記にもあるように大関候補の一番手。過去に多かった取りこぼしも減ってきているため大関には近づいていると見られる。関脇以下の中では地力に関しては1といってもおかしくない。
エピソード
趣味のひとつでもある絵画はセミプロの腕前。13歳頃から始め、美術の専門学校であるイレドゥチョボル高校在学中に、個展を開いた。2005年9月場所9日目、NHK大相撲中継の中入りの時間帯で、憧れの富士山を油絵で描く様子が紹介された。取材日前日までの台風の影響で、少し雲がかかっていた富士山を見て、「負けたり寂しいときに見る感じ」を表現したと言い、スタッフと相談して「孤高」というタイトルをつけた。次は「沖縄のきれいな海を描きたい」とのこと。
2006年末に、父親のダワーニャムと親族が交通事故により急死、次兄のラグバドルジも重傷を負った。この事故のため一旦帰国したが、1月場所出場のため2007年1月6日に日本に戻り、悲しみを押し殺して場所を勤めた。