安部公房
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安部 公房(あべ こうぼう、1924年3月7日 - 1993年1月22日)は、日本小説家劇作家演出家。本名は漢字は同じであるが、公房の読み方は「きみふさ」。

東京府北豊島郡(現東京都北区)生まれ(本籍地北海道旭川市)。少年期を満州で過ごす。戦後日本においてシュルレアリスムの影響を受けた前衛的な作品を発表し、三島由紀夫などとともに第二次戦後派の作家とされた。主要作品は小説に『』『砂の女』『燃えつきた地図』『箱男』など、戯曲に『友達』『榎本武揚』などがある。自らの演出による舞台でも国際的な評価を受け、晩年はノーベル文学賞の候補にも挙げられた。
目次

1 来歴

2 人物

3 略歴

4 作品リスト

4.1 小説

4.2 戯曲

4.3 映画

4.4 ラジオドラマ

4.5 評論

4.6 詩集

4.7 紀行

4.8 映像化作品


5 関連人物

6 参考文献

7 外部リンク

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来歴

満州医科大学(現・中国医科大学)の医師である父・安部浅吉と、母・よりみの長男として生まれる。1925年、1歳の時に家族と共に満州(現・中国東北部)に渡り、奉天市(現・瀋陽市)に居を構え幼少期を満州で過ごす。小学校では五族教育を受けている。1940年に満洲の旧制奉天第二中学校を4年で卒業。帰国して旧制成城高等学校(現・成城大学)理科乙類に入学。冬に、軍事教練の影響で肺浸潤にかかり休学し、奉天の実家に一時的に帰って療養する。

1943年9月、戦時下のため繰上げ卒業し、10月に東京帝国大学医学部医学科に入学。1944年20歳の時に文科系学生の徴兵猶予が停止されて次々と戦場へ学徒出陣していく中、「次は理科系が徴兵される番だ」と感じた事と「敗戦が近い」という噂を耳にして、本土決戦に巻き込まれることを避けるために中学時代の友人と「重度の肺結核である」との診断書を偽造し、「療養のため」と称して大学を休学して、年末に船で満州の奉天に帰る。1945年は実家で開業医となった父の手伝いをして過ごし8月15日の終戦を迎える。

1945年の冬に発疹チフスが大流行して診療にあたっていた父が感染して死亡する。1946年に敗戦のために家を追われ、奉天市内を転々としながらサイダー製造などで生活費を得る。年末、引き上げ船にて帰国(この際、船中でコレラが発生した体験が後の『けものたちは故郷をめざす』の背景となる)。 北海道の祖父母宅へ一家で身を寄せる。1947年23歳の時に単身上京して大学の一学年下のクラスに復学する。三月、女子美術専門学校(現・女子美術大学)の学生である山田真知子(後年、画家として安部の作品の装訂や舞台美術を手掛けることになる)と学生結婚する。1948年に卒業するものの、医師国家試験に不合格となる。

1947年に、安部は満洲からの引き上げ体験のイメージに基づく『無名詩集』を、謄写版印刷により自費出版した。詩人ライナー・マリア・リルケや哲学者マルティン・ハイデッガーの影響を受けたこの62ページの詩集には、失われた青春への苦悩と現実との対決の意思が強く込められていた。

同じく1947年に、安部は「粘土塀」と題した処女長編を、成城高校時代のドイツ語担当教員・阿部六郎の許に持ち込んだ。この長編は、一切の故郷を拒否する放浪の後に、満洲の匪賊の虜囚となった日本人青年が書き綴った、三冊のノートの形式を取った物語であった。「粘土塀」の内容に深い感銘を受けた阿部は、この作品を文芸誌『近代文学』の創刊者の一人である埴谷雄高に送り、「粘土塀」の内の「第一のノート」が翌年2月の『個性』に掲載された。この作品が縁となって、安部は埴谷雄高、花田清輝岡本太郎らの運営する「夜の会」に入会した。埴谷、花田らの尽力により、1948年10月に「粘土塀」は『終りし道の標べに』と題されて真善美社から一冊の単行本として刊行された。埴谷は安部を高く評価しており、後の『壁』の書評においては、安部が自分の後継者であるばかりか、自分を越えたとまで述べている。1950年には、勅使河原宏瀬木慎一らと共に「世紀の会」を結成した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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