安慶(あんけい、簡体字:安?市、ピンイン: ?nq?ng)は、中華人民共和国安徽省の南西部にある長江沿岸の港湾都市(地級市)である。別名を宜城、略して「宜」という。
北西部に安徽省・湖北省・河南省の境をなす大別山の山岳地帯があり、北は六安市、北東は巣湖市、西は湖北省鄂州市、長江の対岸は、東は銅陵市、南東は池州市、南は江西省九江市と向かい合っている。長江沿岸は非常に多くの湖がある。
面積は15,398平方km(市区は550平方km)、総人口は609万1500人(2003年)、市区人口はおよそ50万人。
目次
1 行政区画
2 沿革
3 経済
4 交通
5 古跡・観光地
6 文化
7 著名人
8 逸話
9 友好都市
10 外部リンク
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3区、1市、7県を統轄する。
区
迎江区・大観区・宜秀区
市(県級市)
桐城市
県
樅陽県・懐寧県・望江県・潜山県・宿松県・太湖県・岳西県
安慶は有史以前から人類が暮らしていた。近年の考古学調査で多くの新石器時代の遺跡が出土し、中でも有名なものは潜山県・薛家崗の遺跡である。
安慶は秦代には九江郡に属し、西漢時代は廬江郡皖県であった。魏晋南北朝時代初期(三国時代)には晋煕郡懐寧県となり、現在の安慶市区と懐寧県山口鎮付近に、それぞれ呂蒙城と皖口城が置かれ、長江北岸の重要な軍事要塞であったが、戦乱の時期が過ぎると放棄された。隋代には同安郡、唐から北宋の時代には舒州と呼ばれた。
南宋の慶元元年(1195年)、舒州安慶軍は舒州安慶府と改称された(当時の安慶府は現在の潜山県城にあった)。嘉定10年(1217年)、金の兵士が淮河を渡り南侵するのを防ぐため、安慶府の長(安慶知府)の黄干は大龍山の南、長江の北岸の現在の安慶市区に城池の修築を開始した。紹定4年(1231年)、安慶知府の趙某は城の第二次修築計画に取り掛かったが、未竣工または建設停止となった。景定元年(1260年),沿江制置大使の司馬祖は安慶城を最終的に完成させ、安慶府と懐寧県はともに安慶城内に移転した。現在の安慶城市はこのとき以来の歴史がある。元代には河南行省の安慶路となり、明代には一時江寧府と改称されたが、ふたたび安慶府となった。
清代の康熙6年(1667年)、一帯の行政区画が再編され、安慶府と徽州の名をとって「安徽省」が設置された。ただし安徽布政使司は長い間安徽省から離れた江寧の街(現在の南京)に置かれていたが、乾隆25年(1760年)、ようやく安慶城に移転し、安慶が省会となった。
清朝後期の咸豊3年(1853年)、太平天国軍は長江沿岸の拠点とみなした安慶城を陥落、安徽省の巡撫衙門は廬州(現在の合肥)に避難した。太平天国の西端の拠点都市となった安慶は、すぐに清軍と太平天国軍とが争奪する軍事要地となった。咸豊11年(1861年)に曽国藩の組織した湘軍が最終的な安慶攻略に取り掛かり、太平天国軍による熾烈な篭城戦の末、ついに清の手に奪回された。この際の太平天国軍の兵士の果敢な戦いぶりは今も安慶に伝わっている。曽国藩は安慶から太平天国攻略を指揮し、その間武器製造で安慶は発展した。
光緒2年(1876年)のイギリスとの芝罘条約により開港された中に安慶は含まれ、長江沿岸の条約港となった。1938年1月、日本軍は安慶を占領、安徽省政府は六安、金寨などに避難を繰り返し、その後安慶に戻ることはなかった。安慶の安徽省会としての歴史は170年ほどの間であった。
日中戦争の終結後、国共内戦の間に安慶は中国国民党の安慶専員公署と懐寧県の県庁所在地であったが、1949年4月,人民解放軍が安慶に入城した。1988年、地域と市が合併し、安慶は周囲8県を管轄することとなった。そのうち、桐城県は現在桐城市になっている。
2003年の市内の国内総生産は323億6000万元、一人当たりで5,352元であり、沿岸部とは差がある。また、経済成長でも、工業・港湾貿易中心の市区部と農業中心の周辺の県では不均衡が存在する。
市の主産業は第1次産業で、農業では周囲の山にある茶畑からの茶が主要産品である。工業は繊維産業・電機製造が中心で、低調な国営企業に代わり民営企業の発展や外資の進出があり、輸出先は日本や米国などとなっている。主な企業は紡績大手の華茂グループ、大型石油化学工場・安慶市石化廠などである。
高速道路は、合肥とつながり九江や武漢へつながる合安高速公路が市域を貫通している。ほか、上海から合肥につながる滬蓉高速公路が市域をかすめている。長江を渡る安慶長江大橋も開通している。