孫文
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女子サッカー選手の「孫?」とは別人です。

孫 文
Sun Yat-sen

1910年代撮影
中華民国臨時政府
初代 臨時大総統
任期1912年1月1日1912年4月1日
臨時副総統黎元洪
広東軍政府
大元帥
任期1917年9月10日1918年5月20日
中華民国正式政府
非常大総統
任期1912年5月5日1923年2月21日
広東大元帥府
大元帥
任期1923年2月12日1925年3月12日
中国国民党
総理[注釈 1]
任期1919年10月10日1925年3月12日

出生1866年11月12日同治5年10月初6日)
広東省広州府香山県翠亨村[注釈 2]
死去 (1925-03-12) 1925年3月12日(58歳没)
中華民国 京兆地方京都市
協和病院[注釈 3]
政党中国同盟会中国国民党
配偶者盧慕貞(1885 ? 1915)
陳粹芬 (1891 - 1912)
大月薫(1903 ? 1906)
宋慶齢(1915 ? 1925)
署名

孫 中山

職業:革命家政治家思想家政治運動家
各種表記
繁体字:孫 中山
簡体字:? 中山
?音:S?n Zh?ngsh?n
ラテン字:Sun Chung-shan
和名表記:そん ちゅうざん
発音転記:スン・ヂョンシャン
英語名:Sun Yat-sen(孫 逸仙)
各種表記(本名)
繁体字:孫 文
簡体字:? 文
?音:S?n Wen
和名表記:そん ぶん
発音転記:スン・ウェン
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孫 文(そん ぶん、英語: Sun Yat-sen、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: S?n Wen、注音: ??? ???、1866年11月12日同治5年10月初6日〉 - 1925年民国14年〉3月12日)は、中華民国政治家革命家思想家政治運動家医師。初代中華民国臨時大総統中国国民党総理

「中国革命の父」である。中華民国では中国最初の共和制の創始者として長らく国父と呼ばれ、近年は中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」の「国父」として、再評価が進んでいる。

中国語圏では孫文よりも日本名の中山 樵(なかやまきこり)をとった孫 中山(そん ちゅうざん)の名称が一般的であり、孫中山先生と呼ばれている。1935年から1948年まで発行されていた法幣不換紙幣)で肖像に採用されていた。現在は100新台湾ドル紙幣に描かれている。中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
呼称・号

譜名は徳明(とくめい)、は載之(さいし)、は日新(にっしん)、逸仙(いっせん)または中山、幼名は帝象(ていしょう)。他に中山 樵(なかやま きこり)、中山 二郎(なかやま にろう)、高野 長雄(たかの ながお)、ドクター・アロハがある[1]。中国や台湾では孫中山として、欧米では孫逸仙の広東語ローマ字表記であるSun Yat-senとして知られる。
号の由来

孫文は日本亡命時代には東京府日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山孝麿侯爵で、孝麿の叔母中山慶子(中山一位局)は明治天皇生母である[2]。また、宮崎滔天から孫文亡命の協力を頼まれた犬養毅平山周が、身を隠すための孫文の日本名として中山忠能(明治天皇の祖父)から拝借したとする説もある[3]

章士サが1903年に宮崎滔天の『三十三年の夢』を『大革命家孫逸仙』に翻訳した際、孫の姓と偽名「中山樵」を併用しており、「孫中山」と呼び、後に中国での孫の通称になった。孫は自分を「孫中山」とは呼ばず、すべての公文書や手紙に「孫文」の名で署名している。[4]

生まれ故郷である広東省の中山市(孫文にちなんで香山県から改称)[1]、中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山大学南極大陸中山基地、そして現在台湾中国にある「中山公園」、「中山路」など「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
生涯
生い立ち孫文(17歳)

清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の農民の家に生まれる。父は孫達成(号:孫道川)、母は楊氏であり、5番目の子として生まれた。兄2人姉2人がいたが兄と姉1人ずつは幼くして亡くなり、孫文が生まれた時は父親は53歳、母親は38歳であった。9歳にして父を失う。12歳のとき、地域信仰の象徴であった洪聖大王木像を地元の子供らと壊したことから、兄の監督下に置かれることになる。当時のハワイ王国出稼ぎで渡っていた兄の孫眉からの支援を得て、1878年に母と共にオアフ島ホノルルに移住した。後に同地のイオラニ・スクールを卒業し、同市のプナホウ・スクールにも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母は孫文が西洋思想(特にキリスト教)に傾倒することを心配し、1883年に中国に戻された。

帰国後、イギリス植民地香港にある香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオ医師として開業した。
革命家へ
日本へ亡命

清仏戦争のころから政治問題に関心を抱き、1894年11月にハワイで興中会を組織した。翌年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に亡命した。


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