女子教育(じょしきょういく)は、女子に対する教育のことである。
目次
1 解説
1.1 明治以前
1.2 明治維新後
1.3 第二次大戦後
2 関連項目
3 外部リンク
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702年(大宝2年)に施行された大宝律令による大学寮には女子は入学できなかったが、典薬寮、雅楽寮で学び、女医、楽士になることはできた。平安時代、万葉仮名から女文字ができ、詩文を書くことから仮名交じり文に発展した。貴族の女子については、習字、絵画、琴と琵琶、読書に及び教育、特に和歌の修練は大切にされた。
鎌倉時代になると尼僧になる子供は寺子屋に入り、室町時代には、庶民の子女も寺子屋へ入学するようになった。
16〜17世紀にはキリシタン宗門が九州を中心として各地に学校を設け、男女の区別なく教育を施すようになった。教科は、国語、ポルトガル語、算数、修身、音楽、作法であった。
江戸時代は寺子屋が興隆を極め、江戸時代末には就学率は7割を超えた。女子限定の寺子屋もあったが多くは男女共学(寺子屋によっては席を分けるなどの配慮はあったようである)で多くの女子が「読み・書き・そろばん」の教育を受けた。
1872年(明治5年)の学制には、女児小学校があり、尋常小学校で技芸を教えた。1899年(明治32年)の高等女学校令の実施以降、特にキリスト教宣教師、私学人による女子教育が振興され、科学、技術、地歴教育、習字、手芸、家政、体錬も加わったが、その基本とされた理念は良妻賢母であった。
女子の高等教育は教員養成から始められ、1874年(明治7年)に女子師範学校が設けられ、1890年(明治23年)には女子高等師範学校が設置された。明治30年代になると、日本女子大学校などの私立の高等教育機関が設けられたが、いずれも専門学校(旧制)であった。その後、大正年間には女子の高等教育振興の声も大きかったが、女子は大学教育から疎外されていた。
女子の中等教育は初期は私塾的な学校が主体となっていたが、女子中等教育制度が確立されると、師範学校令(1886年)により初等学校の教員を養成する女子師範学校と、高等女学校令(1899年)により普通教育及び実践教育を実施する高等女学校によって担われた。私立の主な学校には、下田歌子によっれ設立され実践女学校・女子工芸学校(1899年)、戸板関子によって設立された戸板裁縫学校(1902年)・三田高等女学校(1916年)がある。
女子の高等教育は1890年(明治33年)に中等学校の教員を養成する女子高等師範学校が設置したことに始まる。 その後専門学校令により私立の女子専門学校として、普通教育及び実践教育を目的とする1901年(明治44年)に日本女子大学校が成瀬仁蔵によって設置されたのを皮切りに、現在の私立女子大学の前身となる学校が次々と開設された。主な学校にミッション系の聖心女子学院専門学校(1916年)、東京女子大学(1928年)、横井玉子によって設立された女子美術学院を前身とする女子美術専門学校(1929年)、鳩山春子によって設立された共立女子専門学校(1928年)、津田梅子によって設立された女子英学塾を前身とする津田英学塾(1933年)がある。 官立の女子専門学校は、1923年(大正12年)に福岡県女子専門学校を皮切りに各地に開設されたが、官立の女子専門学校は国ではなく道府県市によって設置された。 一方1912年(明治45年)には医歯薬系の教育を目的とする東京女子医学専門学校が吉岡弥生により設置されたが、医歯薬系の女子専門学校は第二次世界大戦期になるまで長く私立の学校のみであった。 なお旧制大学には女子大学として設置されたものはなく、大学レベルの教育を受けるためには一般の大学に入学する必要があった。なお戦前の学制では、女子学生は大学の進学課程とされていた旧制高等学校に入学することが出来なかったため、女子学生が大学に進学するには女子高等師範学校、女子専門学校から進学(傍系入学)した。
主な旧制大学、女子高等教育機関の設立時期と旧制大学の女子学生の受け入れ状況年次出来事
1886年(明治19年)東京帝大設立
1897年(明治30年)京都帝大設立
1900年(明治33年)東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)設立
1901年(明治34年)最初の旧制女子専門学校として日本女子大学校が開学
1907年(明治40年)東北帝大設立
1908年(明治41年)奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)設立
1911年(明治44年)九州帝大設立
1912年(明治45年)東京女子医学専門学校(現東京女子医科大学)開学