奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)は、戊辰戦争中に陸奥国(奥州)、出羽国(羽州)、越後国(越州)の諸藩が、輪王寺宮・北白川宮能久親王を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成した同盟である。 元々は奥羽諸藩が会津藩、庄内藩の 「朝敵」赦免嘆願を目的として結んだ同盟(奥羽列藩同盟)であったため、両藩は盟約書には署名していない(ただし両藩は会庄同盟を結成)。 赦免嘆願が拒絶された後は、新たな政権(北部政権)の確立を目的とした軍事同盟に変化した。会津若松の祭典にて列藩同盟旗を掲げる旗手
目次
1 救会・救庄のための同盟
1.1 会津、庄内藩の立場
1.2 会津への出兵
1.3 庄内・清川口の戦い
1.4 会庄同盟
1.5 白石列藩会議
1.6 世良修蔵の暗殺
1.7 奥羽列藩同盟の結成
1.8 北越諸藩の加盟?奥羽越列藩同盟の成立
1.9 同盟結成後の撫順総督府
2 「北部政権」構想
2.1 奥羽越公議府
2.2 列藩同盟の戦略
2.3 二人の天皇
2.4 組織構造
3 戦闘
3.1 庄内・秋田戦線
3.1.1 庄内戦線
3.1.2 秋田戦線
3.2 北越戦線
3.3 白河戦線、平潟戦線
3.4 瓦解
3.5 野辺地戦争
4 奥羽越列藩同盟参加藩
5 参考文献
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会津藩は京都守護職、庄内藩は江戸市中取締を命ぜられ旧幕府の要職にあり、薩長と対立したために 「朝敵」として新政府からの攻撃対象とされ、特に会津藩は幕府派の首魁と目されていた。
会津藩内では武装恭順派と抗戦派が対立したが、藩主松平容保は家督を養子の喜徳へ譲り謹慎を行い恭順の意志を示した。 しかし、この武装恭順は認められず、慶応4年(1868年)1月17日、新政府は仙台藩・米沢藩をはじめとする東北の雄藩に会津藩追討を命じた。 3月2日、奥羽鎮撫総督九条道孝が京都をたって3月23日仙台に入った。
鎮撫使は仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫ったため3月27日に会津藩境に出兵したが、この間も仙台藩・米沢藩等は会津藩と接触を保って謝罪嘆願の内容について検討を重ねていた。 4月29日、七が宿・関宿にて仙台・米沢・会津藩による談判がもたれ、会津藩が謀主の首級を出し降伏することに一旦同意したが、数日後にはそれを翻した内容の嘆願書を持参する。これを見て仙台藩は説得を諦めることとなる。
一方、庄内藩では、江戸市中警備を行っていた新徴組を引き上げるのに当たって、その褒賞として最上川西岸の天領を接収してしまう。 4月10日、このことを口実に奥羽鎮撫府は庄内征伐を決め、久保田、弘前両藩に討ち入りを命じた。 14日には副総督沢為量ら討庄軍が仙台を出発して庄内藩の討伐に向かい、奥羽諸藩の兵とともに新庄城を拠点に庄内藩へ侵攻した。 24日に清川口で最初の戦闘が発生したが、庄内軍が薩長軍を撃退する。この段階では各藩とも戦闘に消極的であった。
会津藩と庄内藩はともに朝敵とされたことから、会津藩は南摩綱紀を庄内藩に派遣、4月10日に庄内藩重役の松平権十郎らと会合を持ち、会庄同盟を結成する。 そのころ庄内藩は、当時日本一の大地主と言われ藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入するなど軍備の強化を進めており、それが会津藩を勇気づけることとなった。