奥山和由
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奥山和由(おくやま かずよし、男性、1954年12月4日 - )は、日本の映画プロデューサー映画監督

愛媛県で生まれ東京都で育つ。都立戸山高校学習院大学経済学部卒業。松竹専務を経て、現在は(株)チームオクヤマ代表。2006年度から武蔵野美術大学造形学部映像学科の客員教授として「実践的プロデュース論」等を講義。
目次

1 来歴

2 映画界における奥山の実績

3 ロバート・デ・ニーロと奥山

4 北野武と奥山

5 映画投資ファンド

6 シネマ・ジャパネスク

7 解任騒動

8 チームオクヤマ

9 主な作品

10 関連項目

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来歴

大学卒業後、1979年松竹入社。

20代後半からプロデューサーを務め、35歳で取締役に抜擢。

1982年瀬戸内シージャック事件を描いた『凶弾』で映画製作に初めて携わり、その後多数の映画をプロデュース。特に異業種との共同制作が多く、純然たる松竹映画はほとんどない。1987年東急グループ三井物産と制作した『ハチ公物語』、1989年映画ファンド第一号による『226』、1992年テレビ朝日との『遠き落日』等、大ヒット作品多数。

1994年江戸川乱歩生誕100周年記念作品『RAMPO』で映画初監督。

1997年製作の『うなぎ』(監督:今村昌平)では第50回カンヌ国際映画祭パルムドール賞を受賞した。

北野武竹中直人坂東玉三郎を異業種から新人映画監督としてデビューさせる等、映画界の寵児としてもてはやされたが、1998年突然実父とともに松竹を解任された。

1998年、製作会社「チームオクヤマ」を設立。

最新作は『ハチ公物語』『遠き落日』の神山征二郎監督と久々のコンビによる『ラストゲーム~最後の早慶戦~』。2008年8月23日公開。


映画界における奥山の実績

奥山は山田洋次監督作に代表される「大船調」といわれる松竹伝統の映画製作の現場にありながら『海燕ジョーの奇跡』(監督:藤田敏八)、『いつかギラギラする日』(監督:深作欣二)、『陽炎』(監督:五社英雄)を初めとする他社出身の監督による青春アクション映画路線を打ち出し、『ハチ公物語』を初めとする他社との共同制作を推進。また「シネマジャパネスク」プロジェクトでブロックブッキングの興行形態にメスを入れ、『外科室』(監督:坂東玉三郎)では「上映時間50分・入場料1000円」の興行方式を仕掛け、映画界全体に新風を吹き込んだ。1980年代は『ハチ公物語』を初めとし大ヒット作を連発し業界内外に実績を認められ顔が利く存在となったが、1990年代後半に入ると異常に制作本数が増えヒット作以外に興行的不振が目立つようになり「シネマジャパネスク」は頓挫する形となった。カンヌ映画祭グランプリを受賞した『うなぎ』にしても作品の評価は高かったが興行的には大ヒットとまではいかず、新人監督として抜擢した北野武の『その男、凶暴につき』、竹中直人の『無能の人』においても同様の結果だった。解任騒動では奥山の独断的な人事や採算度外視の映画制作の手法に、その経営手腕を疑問視する声も少なくなかったといわれる。しかし、映画界自体が閉塞状況のなか、何らかの明るい未来へ向かう種をまくには、短期で見れば、それなりの経営面での犠牲も伴わざるをえなかったことも事実であろう。

奥山は常にアメリカ型プロデューサーと言われたが、その象徴的事件として『RAMPO』の監督解任劇があった。当初、NHKのディレクター・黛りんたろうに監督を依頼。しかし、完成した作品を観て、撮り直しを要求。それを黛が拒否したため、奥山自身の監督による別バージョンを製作し、2つのバージョンの同名タイトルの作品を同時公開するという暴挙に出た。当時は大変な話題となり、ヒットはしたものの、その強引さを非難する声もあがった。その一方で、今やヒットメーカーに成長した行定勲ら多くの新人監督にもチャンスを与え、監督デビューのきっかけを与えられた北野武はその後海外での評価が高まる等、奥山の多くの監督を育てた映画界への貢献に再評価の動きも見られる。


ロバート・デ・ニーロと奥山

1995年ロバート・デ・ニーロが、初監督作品『ブロンクス物語』のキャンペーンのため日本に訪れた折に、奥山はデ・ニーロと初めてミーティングを持った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki