天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。武士階級以外の階層や水戸藩領以外からも多くの参加があり、行軍中に政治的な宣伝も行った。
目次
1 背景
1.1 水戸学と尊皇思想
1.2 派閥間の対立
2 挙兵
2.1 改革派から過激派へ
2.2 挙兵
3 「天狗党」の由来
4 挙兵後の争乱
4.1 保守派による排撃
4.2 幕府による追撃
4.3 投降
5 主導者への裁定
5.1 斬首の後、水戸にて梟首
5.2 斬首
6 乱後
7 エピソード・その他
8 関連作品
9 外部リンク
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水戸藩主第2代徳川光圀が彰考館において大日本史の編纂を始めて以来、第10代徳川慶篤の孫徳川圀順が1906年(明治39年)に完成させるまで、代々多くの藩士が事業に携わることとなった。
編纂が進むにつれてその思想体系などが整備され、やがて水戸学と呼ばれる学問の一派へと成長し、水戸藩士は皆等しく水戸学の尊皇思想の影響を受けることとなる。
しかし、この思想は尊皇を説くあまりに、幕府より皇室を重んじる傾向があったため幕府から猜疑の目で見られる原因となり、幕政の中心から遠ざかる原因ともなった。
大日本史の編纂事業は、江戸時代中頃に停滞期へ入ってしまうが、それを復興したのが立原翠軒であった。立原の下には多くの門人が集まり、その中には弱冠10歳で入門を許された古着商藤田屋の息子、藤田幽谷の姿もあった。
幽谷は18歳で幕府老中の松平定信に求められて「正名論」を提出するなど才能を開花させるが、立原との大日本史編纂を巡る考え方の違いや、立原に謹慎を申し渡されていた中で藩主徳川治保へ封事を提出して免職されるなどしたため、立原は絶交。師弟は対立するようになる。
1797年(寛政9年)、藩主治保は幽谷の考えに沿って大日本史の編纂を進めることを決定し、立原は彰考館を退職。これによって両者の対立は派閥間の争いに発展することとなる。
その後、立原派=保守派、藤田派=改革派として政治的対立が続く。改革派を継いだ藤田東湖が両派の関係修復に尽力するも、1855年に発生した安政の大地震にて東湖が圧死すると調停役を失った抗争は一気に泥沼化。血の粛清へと発展する。
これら抗争によって両派とも巨頭になり得る人材を失い、問題の解決と関係の修復を行う力を失っていった。
日米修好通商条約許さずの天意を無視する形で条約調印に踏み切った幕府に激怒した孝明天皇は、幕政における復権を画策していた水戸藩の朝廷工作に乗り、1858年9月14日(安政5年8月8日)、同藩に対して直接勅書を下賜するという異例の行動に出た(詳細は「戊午の密勅」を参照)。
大老・井伊直弼ら幕府主流派は密勅が倒幕を画策するものであると捉え、水戸藩に対して勅書の幕府への引渡しを命じる一方で、将軍家定の後継者問題を巡る対立で水戸藩が中心となっていた、いわゆる一橋派に加担していた人物への弾圧を強めていった(「安政の大獄」)。
幕府からの勅書返納命令に対し、水戸藩内は旧保守派を中心として返納する論(鎮派)と、旧改革派を中心とした反対論(激派)に分かれて対立する。翌年に朝廷から出された返納の勅により、ようやく朝廷へ直接返納することで藩論が統一される。
藩論が返納となったことで激派への弾圧はいっそう厳しいものとなった。また、激派の中には返納派が密かに幕府へ勅書を渡してしまうのではないかと疑い、脱藩して実力行使にて幕府返納を阻止しようと考える者もいた。
高橋多一郎ら脱藩した水戸浪士達は長岡(現・茨城県東茨城郡茨城町)に集結し、同志・農民など数百人がこれに賛同して合流した。彼等は「大日本至大至忠楠公招魂表」と書かれた札を立てて長岡宿での検問を実施、江戸への勅書搬入を阻止しようとしたのである。
後に「長岡屯集」と呼ばれるこの行動は、鎮派を牽制する程度の効果はあったものの、水戸に残る激派の立場を更に危うくすることになり、謹慎中の前藩主斉昭も「返納の阻止は天意に反する」と説得した為、主だったメンバーが江戸に脱出することで解散した。