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天然痘ウイルス
天然痘(てんねんとう)とは天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つである。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生じ、治癒しても瘢痕を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症。時に、国や民族が滅ぶ遠因ともなってきた。日本では、藤原四兄弟の相次ぐ死により、一時国政が大混乱に陥った。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。
目次
1 臨床像
2 歴史
2.1 前史
2.2 ヨーロッパ
2.3 アメリカ
2.4 東アジア・日本
3 制圧の記録
3.1 種痘
3.2 天然痘の撲滅
4 予防・治療
5 問題
5.1 テロの危険
5.2 類似ウイルス
6 関連法規
7 天然痘にかかったとされる有名人
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
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天然痘ウイルスは直径200ミリミクロンほどで、数あるウイルス中でも最も大型の部類に入る。ヒトのみに感染・発病させるが、膿疱内容をウサギの角膜に移植するとパッシェン小体と呼ばれる封入体が形成され、これは天然痘ウイルス本体と考えられる。 天然痘は独特の症状と経過をたどり、古い時代の文献からもある程度その存在を確認し得る。大まかな症状と経過は次のとおりである。
飛沫感染や接触感染により感染し、7〜16日の潜伏期間を経て発症する。
40℃前後の高熱、頭痛・腰痛などの初期症状に始まる。
発熱後3〜4日目に一旦解熱して以降、頭部、顔面を中心に皮膚色と同じまたはやや白色の豆粒状の丘疹が生じ、全身に広がっていく。
7〜9日目に再度40℃以上の高熱になる。これは発疹が化膿して膿疱となる事によるが、天然痘による病変は体表面だけでなく、呼吸器・消化器などの内臓にも同じように現われ、それによる肺の損傷に伴って呼吸困難等を併発、重篤な呼吸不全によって、最悪の場合は死に至る。
2〜3週目には膿疱は瘢痕を残して治癒に向かう。
天然痘ウイルスの感染力は非常に強く、患者のかさぶたでも1年以上も感染させる力を持続する。 天然痘の予防は種痘が唯一の方法であるが、種痘の有効期間は5年から10年程度である。何度も種痘を受けた者が天然痘に罹患した場合、仮痘(仮性天然痘)と言って、症状がごく軽く瘢痕も残らないものになるが、その場合でも他者に感染させる恐れがある。
天然痘の発源地はインドであるとも、アフリカとも言われるが、はっきりしない。恐らく最初は動物の病気であったものが、何らかの原因でヒトへの感染性・特異性を獲得したものであろう。最も古い天然痘の記録は紀元前1350年のヒッタイトとエジプトの戦争の頃であるが、実際には、人間が農耕を始めて集団で定住生活に入った紀元前8000年頃には既に存在した可能性がある。天然痘で死亡したと確認されている最古の例は、紀元前1100年代に没したエジプト王朝のラムセス5世であり、そのミイラには天然痘の痘痕が認められた。
紀元前430年の「アテナイの疫病」は「アテナイのペスト」とも呼ばれたが、記録に残された症状から天然痘であったと考えられる(他に、麻疹、発疹チフス、あるいはこれらの同時流行とする説もある)。165年から15年間ローマ帝国を襲った「アントニウスの疫病(アントニウスのペスト)」も天然痘とされ、少なくとも350万人が死亡した。その後、12世紀に十字軍の遠征によって持ち込まれて以来、流行を繰り返しながら次第に定着し、ほとんどの人が罹患するようになる。ルネサンス期以降肖像画が盛んに描かれるようになったが、天然痘の瘢痕を描かないのは暗黙の了解事項であった。
コロンブス以降、ヨーロッパ人の殖民とともに天然痘もアメリカに侵入し、先住民に激甚な被害をもたらした。白人だけでなく、奴隷として移入されたアフリカ黒人も感染源となった。旧大陸では久しく流行状態が続いており、住民にある程度抵抗力ができて、症状や死亡率は軽減していたが、アメリカ先住民は天然痘とは無縁であったため全く抵抗力がなく、所によっては死亡率が9割にも及び、全滅した部族もあった。他にも麻疹やおたふく風邪などがヨーロッパからアメリカに入ったが、天然痘の被害は最大のものであり、ヨーロッパ人のアメリカ征服を助ける結果となった。
北アメリカでは白人によって故意に天然痘が先住民に広められた例もある。すなわち、フレンチ・インディアン戦争では、イギリス軍が天然痘で汚染された物品を先住民に贈って発病させ、殲滅した。
中国では、南北朝時代の斉が495年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後短期間に中国全土で流行し、6世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た。
日本への伝播は6世紀半ばで、『日本書紀』には、「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹説もある)。735年から738年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した。奈良の大仏造営のきっかけの一つがこの天然痘流行である。ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。