天平文化
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東大寺盧舎那仏像

天平文化(てんぴょうぶんか)は、時期では7世紀終わり頃から8世紀の中頃までをいい、奈良の都平城京を中心にして華開いた貴族・仏教文化である。この文化を、聖武天皇のときの元号天平を取って天平文化と呼ぶ。
目次

1 特徴

2 建築物・寺院

3 詩歌

4 彫刻

5 工芸品

6 関連項目

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特徴

律令制が確立して中央集権的な国家体制が整うにつれて、国の富は中央に集められ、皇族貴族はこれらの富を背景に華やかな生活を送った。当時の貴族は遣唐使などによってもたらされたの進んだ文化を持つことに大きな熱意を持っていたため、天平文化も周(武周)の武則天玄宗の文化の影響を強く受けた文化であった。このような唐からの文化移入には特に太宰府の果たした役割が大きいと考えられる。

一方、国衙(こくが)・国分寺などに任命された国司(貴族)・官人や僧侶などによって地方にも新しい文物がもたらされた。このようにして、中国風(漢風)・仏教風の文化の影響が列島の地域社会へ浸透していった。シルクロードによって西アジアから唐へもたらされたものが、遣唐使を通じて日本にやってきたりした。


建築物・寺院薬師寺東塔校倉造

平城京碁盤の目のような条坊制が布かれた。そこには多くの官衙(役所)が立てられ、貴族や庶民の家が瓦で葺き、柱には丹(に)を塗ることが奨励された。また、飛鳥に建てられた大寺院が次々と移転された。このようにして「咲く花のにおうが如く今盛りなり」と歌われた平城京が出来上がった。

聖武天皇により諸国に僧寺(国分寺)・尼寺(国分尼寺)を建て、それぞれに七重の塔を作り、金光明最勝王経と妙法蓮華経を一部ずつ置くことにした。その総本山と位置づけられる総国分寺・総国分尼寺が東大寺法華寺であり、東大寺大仏は、鎮護国家の象徴として建立された。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、行基を大僧正として迎え、協力を得た。

代表的な仏教建築

唐招提寺金堂・講堂 - 講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したもの。

薬師寺東塔

東大寺法華堂(三月堂)、転害門

正倉院宝庫(校倉造)

法隆寺東院夢殿


詩歌

万葉集

代表的な歌人:大伴旅人大伴家持山上憶良『貧窮問答歌』・山部赤人


懐風藻(かいふうそう) - 淡海三船石上宅嗣(異説あり)


彫刻阿修羅像 部分 興福寺国宝館多聞天像 部分 戒壇院四天王の1

東大寺の造営を管轄する役所である造東大寺司のもとで官営の造仏所が整備され、多数の工人によって仏像製作が分業的に行われていた。一方、都には民間の仏像制作工房:私仏所があり、また僧侶で仏像制作を行う者もでてきた。指導的仏師としては、東大寺大仏の責任者:国中連麻呂、興福寺の十大弟子八部衆制作の将軍万福などが記録に残っている。 東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏、天平時代の部分は台座、脚部などごく一部)に代表される金銅仏のほか、乾漆像塑像が主流であり、金像銀像、石仏も制作され、専仏、押出仏の制作も盛んで、制作技法が多様であった。

乾漆像

興福寺八部衆立像(阿修羅像など)、十大弟子立像

聖林寺十一面観音立像

唐招提寺金堂盧舎那仏坐像、鑑真和上坐像

東大寺法華堂(三月堂)不空羂索観音立像、梵天・帝釈天立像、四天王立像、金剛力士・密迹力士立像

塑像

新薬師寺奈良市十二神将立像(うち1躯は昭和期の補作)

東大寺法華堂執金剛神立像、日光菩薩・月光菩薩立像、弁才天吉祥天立像

東大寺戒壇院四天王立像


工芸品正倉院正倉

正倉院宝物(楽器、調度品など)


関連項目

奈良時代

天平

聖武天皇

行基

鑑真

遣唐使

・話・編・歴日本の文化史区分


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Mamenoki