天山ウイグル王国(てんざんウイグルおうこく)とは、11世紀から13世紀に東トルキスタンに存在したウイグルのつくった王国である。西ウイグル王国、高昌回鶻、西州回鶻とも称される。都はビシュバリク。主に東西の中継交易で栄えた。
目次
1 歴史
1.1 天山ウイグル王国の成立
1.2 天山ウイグル王国の「イディクト」
1.3 モンゴル帝国時代―ウイグル?馬王家―
2 文化
3 ギャラリー
4 歴代君主
5 関連項目
6 参考文献
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遊牧ウイグル帝国が崩壊した後、西に逃れた15部のうち、河西(南流する黄河中流の西。現在の甘粛省付近)より西へ移動して天山山脈の北東麓に落ち着いた一部が興した王国である。なお、別の一部は河西に入り甘州ウイグルと呼ばれるようになり、更に一部は西へ移動してベラサグンに至り、カルルクと合流して後にカラ・ハン朝を作った。
839年、遊牧ウイグル帝国の第11代君主・彰信可汗が、ソグド系と思われる大臣安允合に暗殺され、さらに連年の天候不順による飢饉に加え、翌840年には雪害による家畜・遊牧民の大量斃死(いわゆるチャガン・ゾド)のためにキルギスの反乱に抗しきれず、ウイグル王国は遊牧政権として完全に崩壊してしまった。このためウイグル人たちはゴビ砂漠以南の華北や甘粛方面、天山山脈方面のオアシス都市地域へ大量に流出することになった。この混乱期に、九姓回鶻の一翼であった僕固(ブグ)氏の首長・僕固俊に率いられた一団が、当時可汗浮図城と呼ばれていたビシュバリク地方へ進出し、これを拠点としておさえた。これが西ウイグル王国の直接の基盤である。
程なく9世紀中頃、擬ヤグラカル王朝(エディズ家)による遊牧ウイグル帝国の最後の君主こうそう・テギン([厂+盍]?・特勤)の外甥であった?特勤(ほう・てぎん)が、ビシュバリクの西部にあった天山山脈山中のユルドゥズ地方の広大な牧草地を確保してこれを本拠地とした。ユルドゥズ地方は夏季の放牧地として豊潤であったが、同時に焉耆などがあったタリム盆地と東の高昌などがあったトルファン盆地とを結ぶ街道の要衝でもあった。?テギンは焉耆を獲得してカガンを名乗り、この都市を最初の首都とした。856年には唐から「懐建可汗」の称号を受けて?禄登里邏泪没蜜施合倶録毘伽懐建可汗(uluγ ta?rida qut bolmi? alp kulug bilga 懐建 qaγan)と名乗った。
天山ウイグル王国の「イディクト」ベゼクリク千仏洞のウイグル貴族供養者(9世紀頃か)
以降、ウイグルのカガンに即位した人物は数名判明しているが、西方のイスラーム政権でも東方の宋、遼、金の諸王朝でも断片的な情報のみが伝わる程度で、ウイグル王国の王統すら判明していない。このため、王国の具体的な記録はモンゴル帝国時代まで待たねばならない。ウイグル西遷の後、何時からかは判然としないが、後期には天山ウイグル王国の君主は伝統的な「カガン(Qaγan)」から「イディクト(Iduq qut > Idi qut > ? d? q?t)」(「神から授かった吉祥」の意味)という称号を用いるようになった。初期にはカガン Qaγan、ハン χan やイリグ Ilig (il+lig:「国持てる」の意味)といった称号を用いていたが、本来はバシュキル族などの君主号だったものを使用するようになったようである。これにはマニ教からの影響とみる説も有る。
元は遊牧民であるウイグルは、この地のオアシス都市国家の影響を受けて定住化するようになり、東西交易、いわゆるシルクロードの中継地点として大いに栄えた。
元来ウイグル族は突厥など同じくシャーマニズム信仰を有していたが、カラ・バルガスン碑文によると遊牧ウイグル王国時代の初期、牟羽可汗が洛陽滞在時の763年頃にマニ教の僧侶の感化を受けて僧侶4名を伴って帰国して以来、ウイグル王侯にマニ教が広く普及した。マニ教をもたらしたのはソグド人であったと見られている。この地に来てからは仏教・景教(ネストリウス派)なども信仰するようになり、在来の定住民(印欧語族イラン系言語の話者)と融和した。このことにより中央アジアのテュルク化が進み、後にトルキスタンという言葉が生まれることになる。
12世紀に入り、東から耶律大石がこの地へを征服して西遼を建て、ウイグル族はこれに服属するようになるが、13世紀にモンゴルでチンギス・ハーンが勃興すると、1211年にウイグル国王(イディクト)バルチュク・アルト・テギンがこれに帰順した。『元朝秘史』によるとチンギスは彼の帰順を大変に歓迎して息女の一人アル・アルトン(『集史』ではイル・アルタイ ?l-Alta?)を娶らせ?馬(キュレゲン)とした。さらにバルチュク国王は『世界征服者史』などではジョチなどチンギスの4人世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重された。以後モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル?馬王家」としてコンギラト?馬家と並ぶ、?馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となる。モンゴル帝国および大元朝ではウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。