日本の大蔵省(おおくらしょう、Ministry of Finance)は、明治維新から2000年まで存在した中央官庁である。後継官庁は財務省。
目次
1 概要
1.1 平将門の首塚
1.2 名称変更
1.3 大蔵省出身の著名人
1.3.1 政界
1.3.1.1 首相経験者
1.3.1.2 大臣経験者
1.3.1.3 その他政治家
1.3.2 財界
1.3.2.1 日銀総裁
1.3.2.2 その他事業家
1.3.3 学界
1.3.4 その他
2 律令制における大蔵省
2.1 概要
2.2 職員
3 脚注
4 関連項目
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1868年(明治元年)旧1月、朝廷に政府運営のための資金調達の機関として、金穀出納所が設置された。名称が何回か変更されて、太政官制が導入された時に会計官と名を改めた。この時期に太政官札が発行された。
1869年旧8月、二官六省制になった事を機に、大蔵省と改名された。旧9月、民政と財政の一体化を主張する大隈重信の案が通り、民部省と合併し、大型官庁となった。ここで大蔵省の権限強化に反発する勢力との間で政争が起こり、1870年旧8月、民部省は再び分離された。だが、再び統合派の巻き返しによって、1871年旧7月には、民部省は再度統合された(但し殖産興業に関しては、前年旧閏10月に、工部省として民部省から独立した)。最終的には、1873年11月の内務省設置まで対立が続いた。又、1880年には、公正な会計監査を求める他省の要求に応える形で監査部門が独立して、会計検査院が設置された。
1885年末に内閣制度が発足した時、初代大蔵大臣は松方正義であった。その後官制が整備され、歳入歳出、租税、国債、造幣、銀行を扱う官庁とされた。
国家予算の配分、租税政策や金融行政といった財政政策を実質的に決定する非常に強力な権限を持ち、戦後、同様に強力であった内務省が解体される一方で、ほぼ無傷で維持された。特に戦後は、「省の中の省」、大蔵官僚は「官僚の中の官僚」と呼ばれた。大蔵省内では、主計局や主税局などの財政部局は「二階組」、銀行局や証券局などの金融部局は「四階組」と呼ばれていた。
2001年の中央省庁再編により大蔵省は分割され、財務省や金融庁(内閣府の外局)にその業務は引き継がれている。財務省は依然予算配分等に影響力は残すものの、予算編成権は建前上経済財政諮問会議に移され、又、金融行政は内閣府金融庁の管轄となった。中央省庁再編は、政治の主導権を官から政へ移すため、強過ぎる大蔵省の力を削ぐ目的もあったとの見方も可能であろう。
関東大震災の直後、政府は大蔵省の敷地内にあった平将門の首塚を取り壊し、そこに仮庁舎の建設を計画した。その時起きた異変で時の大蔵大臣早速整爾ほか十四名が謎の死を遂げ、将門の祟りかと恐れおののいた政府は慌てて首塚を元の様に戻している。また1940年は将門没後丁度千年目であったが、激しい落雷で当時の大蔵省を初めとする官庁街は火災のために全焼し、慌てた大蔵大臣が将門鎮魂祭を催したという。首塚に手を付けると何かが起こると言う伝説は今もなお生き続けている。
日本では、大蔵省という名称が大宝律令以来、約1200年前から使われて来ており、明治維新で復活してからもその名称は変わらず、再編時には長年使用されて来た名称の変更に反発する大蔵官僚の声も多く発せられた。これに対して、橋本龍太郎は「では検非違使庁を復活させるか」と皮肉ったという。結局、池田勇人の揮毫した大蔵省の門標も片付けられ、新しく財務省の看板が設置されると、涙を飲んで大蔵との別れを惜しむ官僚もいた。その最たる者が最後の大蔵大臣(初代財務大臣でもある)となった宮沢喜一である。他の大臣が新官庁の門札に関し、自ら嬉々として揮毫したり、文字に自信のない者は有名書家に書かせるなど思い入れたっぷりだったのに対し、宮澤はコンピュータの楷書体の文字の中から、いろいろと注文をつけながら、文字を選定した[1]。