大稲?(だいとうてい/ダーダオチェン、ピンイン:D?d?och?ng、注音: ---,は現在の台湾台北市大同区附近の名称であり、??を継承して台湾で最も発展した地方である。清末から日本統治時代にかけて,大稲?は経済、社会、文化の中心地として台湾の発展の中心地であったばかりか、人文等の学術の中心地でもあり、現在でも往時の様子を伝える建造物等が散見できる。
目次
1 地理的位置
2 草創期
3 19世紀中期の発展
3.1 移民の増加
3.2 淡水開港の影響
3.3 最盛期
4 日本統治時代以後の変遷
4.1 生活地区への転換
4.2 大稲?と新文化運動
5 現在の大稲?
6 関連項目
7 外部リンク
//
大稲?の範囲は台北市の民権西路以南、忠孝西路以北、東は重慶北路から西は淡水河に囲まれた地域を指す。北には大龍?、南は北城門をくぐり城中、そして南門を経て??へつながり、交通の中心地であった。
17世紀以前,大稲?は少数の平埔族が漁猟を行なっていた地であり、番社名を「圭母卒社」と称した。1709年、載伯?、陳逢春、頼永和、陳天章らが協力して開墾を行い、各人の姓を組み合わせた「陳頼章」を開き、その後漢人がこの地に続々と入植するようになり、また入植者は布や酒などの物資と平埔族人の鹿皮を交換するようになった。当時ここに大規模な穀物を乾燥させる施設が設けられたことから、大稲?と称されるようになった。
1851年、,同安人の林塩田は海賊の被害を避けるために基隆より大稲?へと移民し、3棟の?南式建築を建築し、大稲?最初の商店となった。1853年、??で発生した?泉移民の間で発生した衝突頂下郊?が発生すると、下郊の泉州同安人と?州人は泉州三邑人(晋江、南安、恵安)人により住居を追い出され、北方の大龍?への移住を目指したが、現地住民により拒否され、やむを得ず大稲?へと移住し、淡水河沿いに商店を構え街市を形成、淡水河の水運を利用した交易に従事し、同安人を主体とした河港集落が形成された。
これ以降、??や新荘などで住民同士の衝突が発生するたび、多くの人々が大稲?へと難を逃れ、既存の同安人街市の外側に次々と,「漢人居住区」が誕生した。
19世紀末に2度に亘り英仏連合軍に敗れた清朝は安平、淡水を開港することを決定、1860年に淡水港を開港した。この開港の範囲に??と大稲?も含まれ活発な交易がこの地で行なわれるようになった。しかし??は暫くすると土砂が堆積し大型船舶の航行に不便を来たすようになり、大型船を中心に大稲?に停泊するようになり、台湾北部の商業、貿易の中心地としての地位を確立した。
1865年、イギリス人デビットが訪台し、泉州安渓の茶苗を導入し、それを農家に貸与し茶葉を生産させ、生産後に<買い取るという事業を開始し、台湾における茶葉栽培の嚆矢となった。この時生産された烏龍茶は甘みの有る味のみならず、茶を淹れると白、金、?、緑、紅の色を有し、ヴィクトリア英女王に献上された後に、Oriental Beauty(東方美人)と命名された。これにより台湾茶葉の名声が高まり、徳記、怡和、美時、義和、新華利という5大茶行が大稲?に支社を開設、イギリスやアメリカ向けに大量に輸出されるようになり、国際的な大稲?茶市は光緒年代から日本当時時代まで隆盛を誇った。
洋行主導の茶葉貿易は急速に拡大し、それに伴って大稲?に経済的恩恵をもたらすこととなった。この他通商は経済のみならず、多くの外国風建築物が建設されるなど、文化的な変化をも生み出すこととなった。
1882年、清とフランスの間で政治的緊張が高まった。当時台北には防禦施設は一切存在しなかったため、急遽大稲?と??の間に城壁を建築することが計画された。1885年、清仏間で講和条約が結ばれると、清朝は台湾に行省を設置することを決定し、劉銘伝を初代巡撫に任命した。劉銘伝はインフラの整備を積極的に推進し、大稲??が北部物資の集散地として優位な地位を有していることを考慮し、鉄道駅を大稲?南端(現在の中興医院付近)に台北火車票房」(現在の台北駅の前身)を建設、付近の商業活動をより発展させた。
鉄道の敷設以外にも劉銘伝は大稲?に茶釐局、軍裝機器局等の公共機関を設置し、この地区を「官営工場区」として整備した。これらの政策により、台南に替わって台湾の中心地としての地位を占めるようになった。
またこの時期、地方有力者であった林維源と李春生は共同出資して建昌公司を設立、大稲?に建昌街(現在の貴徳街)を整備し、ここに洋風店舗を設立、それの貸し出しを開始し、洋風建築を用いた商業活動が行なわれるようになった。
日本による台湾統治開始初期、大稲?の茶葉貿易は依然として隆盛であった。こうした中、日本の商業資本は欧米資本の影響力を排除し、日本や東南アジア市場に主眼を置く経済活動に転換させようとした。大稲?は伝統的な茶葉交易以外に、漢方薬、繊維を初め各種物産も扱うようになり、縦貫線が全線開通したことで、一層の経済発展を見た。
日本統治時代中期以後、大稲?は、日本人により建設された城内(現在の中正区、旧称は城中区))にその地位を取って代わられるようになった。この状況下、大稲?と城?は、前者を経済の中心、後者を政治の中心と称されていたが、数度にわたる市区改正により、大稲?など台北西部地区は都市計画から漏れ城外に区分されるようになり、商業活動も次第に城内へと移行していった。これにより開発に取り残された大稲?は台湾元来の街並みと生活様式を残した地区となった。