征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)は、日本の令外官の将軍職の一つ。明治維新のとき、王政復古の大号令により廃止された。
目次
1 概要
2 歴史
2.1 奈良・平安時代
2.2 鎌倉時代
2.3 その後の武家社会
2.4 歴史上存在した俗説
3 歴代の征夷大将軍
4 類似の将軍職
5 脚注
6 参考文献
7 関連項目
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征夷大将軍は、奈良時代から平安時代には、東国に派遣された将軍の呼称の一つであった。略して将軍、公方、大樹、大樹公、御所などとも呼ばれた。征戎大将軍、征蛮大将軍、という名称の職はないが、類似した職に征狄大将軍(せいてきだいしょうぐん)や征西大将軍・征東大将軍がある。また、征夷大将軍に比する官職として、鎮守府将軍がある。鎮守府将軍が平時における地方軍政府の最高責任者であるのに対して、征夷大将軍は非常時における地方軍政府の最高責任者である。
征夷大将軍は鎌倉時代以降江戸時代に至るまでは、幕府の長であり、武家の棟梁が位に就いて子孫が世襲する形を取った。形式的には勅令により任命される臣下ではあるが、室町時代や江戸時代には実質的に朝廷をも押さえた日本の統治者であり、対外的にも日本の国王としての待遇を受けるのが通例であった。
「征夷」とは、「夷を征討する」の意味。征夷大将軍は、「夷」征討に際し任命された将軍の一つで、太平洋側から進軍する軍隊を率いた。日本海側を進軍する軍隊を率いる将軍は征狄大将軍、九州へ進軍する軍隊を率いる将軍は征西大将軍と呼ぶ。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ、中華思想の「四夷」をあてはめたためと思われる。
なお、当初は「征夷」と呼ばれていたが、宝亀以降「征東」となり、延暦12年以降再び「征夷」となる。「征夷将軍」の初見は、養老4年9月28日に任命された、多治比縣守であり、「征東将軍」の初見は、延暦7年12月7日に辞見した紀古佐美である。将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
延暦10年(790年)7月13日に、大伴弟麻呂が征東大使に任命された。延暦12年(792年)2月17日に、征東使を征夷使と改めた。「大使」はまた「将軍」とも呼ばれていた。日本紀略には延暦13年(794年)1月1日に征夷大将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うたとある。
大伴弟麻呂に代わって実質的に戦争を指揮した征東副使・征夷副使の坂上田村麻呂は、延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に任命された。坂上田村麻呂はそれまで頑強に戦ってきた胆沢の蝦夷の阿弖流為を京へ連れ帰り、東北全土を平定した。 その後文室綿麻呂が、蝦夷との交戦に際して弘仁2年(811年)4月17日に「大」なしの征夷将軍に任命され、同年 閏12月11日 蝦夷征伐の終了を奏上、鎮守将軍(府なし)には副将軍だった物部足継が昇格、しかし、弘仁5年(814年)11月17日には、また「大」なしの征夷将軍に復帰している。
なお、征夷大将軍の下には征夷副将軍、征夷軍監、征夷軍曹などの役職が置かれた。
源頼朝は当初、関東武士団の棟梁(=鎌倉殿)でしかなく、律令制下における地位を持たなかった。即ち、当初は平将門等と同じ地方叛乱の首領でしかなかったのである。その頼朝の政権構想には、先行モデルとして平家政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンがあり、それらの比較検討から次第に鎌倉政権のイメージが練られたと思われる。
平家政権の段階では、元々当時は公家の地位が高かったため、平氏の中の平家は公家の一つになることで栄華を誇った。これに対し頼朝は武士の地位そのものの向上に向けて動き出した。そこで、朝廷に対して、武士の自主的統治権を確立するために相応の地位を求めていくようになる。
中央・京都に進出した源義仲は、過去に存在した「征東大将軍」という官職に任官した。征東大将軍の地位は東方の勢力を成敗する使命を暗示するもので、その裏には義仲の頼朝に対抗する意図が推定されるが、義仲政権はごく短期の政権に終わった(近年までは、義仲が任官したのは『吾妻鏡』『百錬抄』を根拠に「征夷大将軍」とする説が有力で、『玉葉』に記されている「征東大将軍」説を唱えるのは少数派であった。だが、『三槐荒涼抜書要』〔『山槐記』の抄出〕に「征東大将軍」と記されているのが発見され、『玉葉』『三槐荒涼抜書要』が同時代史料〔公家の日記〕であるのに対して、『吾妻鏡』『百錬抄』は後世の編纂史料であるため、現在では「征東大将軍」説の方が有力になっている)。
当時の東北地方は奥州藤原氏が支配し、朝廷の支配が及んでいない地域だった。奥州藤原氏は「鎮守府将軍」の地位を獲得し自らの居所を「柳の御所」「柳営」と称した。柳営とは幕府の別名である。