大映株式会社(だいえいかぶしきがいしゃ)は、1942年から2002年まで存在した映画会社。「大日本映画製作株式会社」の略。現・角川映画の前身。
目次
1 沿革
1.1 戦時統合
1.2 永田時代
1.3 徳間時代
1.4 消滅後
2 主な映画作品
2.1 永田時代
2.2 徳間時代
3 関連項目
3.1 経営関連
3.2 主な監督
3.3 主な俳優(男性)
3.3.1 設立初期
3.3.2 永田時代
3.4 主な俳優(女性)
3.4.1 設立初期
3.4.2 永田時代
3.5 その他
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1942年、戦時統制により、小規模な会社を整理・統合する戦時企業統合が、あらゆる産業分野で進められた。映画業界でも新興キネマ、大都映画、日活の製作部門が合併して「大日本映画製作株式会社」となる。当初の案では、映画会社は松竹と東宝の2社のみとすることになっていたが、新興キネマ京都撮影所長だった永田雅一の尽力で、統合案は3社に変更された。
もともと、新興キネマは松竹の傍系会社であった。それにもかかわらず、同社を軸として大映は成立した。この尽力について、立案をした情報局第五部の第二課長に、贈賄をしたという黒い噂は、60年以上たった現在でも消えていない。ただし、情報局へ、政府の「統制会社」としての大映の立場をアピールした点は、永田の勘が的中した結果でもある。業界からの密告により、収賄の疑いで永田は逮捕、拘禁されている。ただし、大映の社史にも、この件と噂は隠さず記録している。
日活の京都にあった太秦撮影所、調布にあった多摩川撮影所(現・角川大映撮影所)と新興キネマの京都太秦撮影所(現・東映京都撮影所)、大泉撮影所(間もなく閉鎖。現・東映東京撮影所)、巣鴨の大都映画撮影所(間もなく閉鎖)、ならびに3社のスタッフ・俳優を引き継ぎ、映画制作を開始。
当初の社名クレジット表記は大映マークにかぶさるように旧社名が縦表記でズームしながらクレジットされた。
1945年、社名を「大映株式会社」に改める。1947年、独占禁止法の趣旨に基づき、日活との関係が無くなる。以降、大映は純然たる民間映画会社として存続する(他の「統制会社」が敗戦で解散した中では、珍しいケースである)。
社名変更後のクレジット表記は星空の後に動く雲をバックに大映マークが映り、それにかぶさるように「作製社會式株映大」の文字がズーム→停止→落下するという演出であった。1950年頃まで使用されていた。
永田時代
1947年 - 専務の永田雅一が社長に昇格。人気作家の川口松太郎が専務に招かれる。
1948年 - プロ野球団金星スターズを買収して「大映スターズ」(後の大毎オリオンズ)を結成。三益愛子主演の「母物シリーズ」が始まり10年続く大人気シリーズとなる。
1951年 - 『羅生門』(監督・黒澤明)がヴェネチア国際映画祭グランプリ受賞。
1953年 - 『雨月物語』(監督・溝口健二)がヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞。
1954年 - 『地獄門』(監督・衣笠貞之助)がカンヌ国際映画祭グランプリ受賞。たてつづけに『山椒太夫』(監督・溝口健二)ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞受賞。
1950年代から1960年代前半にかけて長谷川一夫を筆頭に三大女優の京マチ子・山本富士子・若尾文子、そして市川雷蔵と日本映画史に残る大スター達を擁し、さらに他社専属やフリーの高峰秀子、鶴田浩二、岸惠子らも出演し名作を多数送り出す。1960年代に入ると勝新太郎、田宮二郎が頭角を現す。一方で台湾など海外との合作による大作や70ミリ映画「釈迦」「秦・始皇帝」(←2作とも大ヒット)を制作するなど超大作路線を歩む。また、ウォルト・ディズニー作品の日本における配給権を握っていた。
1958年 - 社内に大映テレビ製作室を設けて、テレビ映画の製作に乗り出す。
「大映スコープ」の導入によりクレジット表記が雲の果てから太陽の光が差し込むというお馴染みのものになる。白黒・カラー共通で末期まで使用された。
1959年 - 東宝、松竹、文化放送、ニッポン放送と共にフジテレビジョンを開局。