大宅 壮一(おおや そういち、1900年9月13日 - 1970年11月22日)は、戦後の日本を代表するマスコミ人、ジャーナリスト。毒舌の評論家として有名。
大阪府三島郡富田村(現高槻市)の醤油屋に生まれる。18歳の時、米騒動に際して民衆蜂起を支持する演説をおこない、旧制茨木中学(現大阪府立茨木高等学校)を放校処分となる(川端康成が一学年上に在籍していた)。専検(旧制中学卒業と同等資格)に合格し旧制高等学校入学資格を得て、第三高等学校に入学・卒業し、東京帝国大学文学部社会学科中退。
太平洋戦争中の1941年には海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属された。その際、同じ班には詩人の大木惇夫や漫画家の横山隆一がいた。その後、大木はこの時の経験を基に詩集「海原にありて歌へる」を出版し、その際に大宅が跋文を書いているが、その中で「戦争といふものは実に素晴らしい文化的啓蒙者である。」と言い放っている。
イデオロギー的な表現を嫌い、「無思想人」と自称していた。
ユニークな造語も多く、「駅弁大学」「恐妻」「一億総白痴化」「口コミ」「太陽族」「男の顔は履歴書である」など現在でも使われている。
1967年1月に大宅壮一東京マスコミ塾(略称大宅マスコミ塾)を開塾する。逝去で幕が閉じられるまで、8期480名の塾生を送り出した。 彼の蔵書を元につくられた「大宅壮一文庫」は、雑誌の図書館として、知られている。
また、没年である1970年から、彼の名を被せた大宅壮一ノンフィクション賞、が毎年気鋭のノンフィクションに与えられている。大宅壮一文庫の理事長を務める大宅昌は妻、ジャーナリストの大宅映子は三女。
外部リンク
⇒大宅壮一文庫
⇒大宅ノンフィクション賞受賞者リスト
カテゴリ: 日本の評論家 | 日本のジャーナリスト | 日本のノンフィクション作家 | 1900年生 | 1970年没
更新日時:2008年8月30日(土)16:56
取得日時:2008/09/01 09:42