大多喜城
(千葉県)
大多喜城
通称大滝城、大多喜城
城郭構造連郭式平山城
天守構造不明
築城主真里谷信清
築城年大永2年(1521年)
主な改修者本多忠勝、阿部正次
主な城主真里谷氏、里見氏、本多氏、
阿部正次、青山正俊、阿部正令、
阿部正春、稲垣重富、松平氏
廃城年明治4年(1871年)
遺構土塁、空堀、井戸
指定文化財千葉県史跡(本丸跡)
再建造物再建天守
位置 ⇒北緯35度17分9.18秒
東経140度14分21.63秒
表・話・編・歴
大多喜城(おおたきじょう)は、現在の千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代かけて存在した平山城。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。
目次
1 歴史・沿革
2 天守
3 考古資料
3.1 遺構
4 関連項目
5 参考文献
6 外部リンク
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大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。以前は小田喜城は同町内の根古谷城のことであり、今日の大多喜城は徳川家康によって大多喜の地を支配した本多忠勝が築城したものと考えられてきたが、近年の発掘によって現在の城の地下に大規模な城の遺構が遺されていることが明らかとされて、小田喜城と大多喜城とが完全に重なる訳ではない(戦国期には裏山である栗山が城の一部に使われていたが、江戸期には栗山は除かれてやや麓側に縄張りが移動されている)ものの、現在では信清の小田喜城を元にして後の大多喜城が築かれたものと考えられている。
信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。
天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、三層四階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。
以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、大多喜藩の規模縮小に伴い、山頂の天守なども荒廃。天保13年には天守が焼失し、天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築が天保15年8月に建てられている。
昭和41年(1966年)、本丸跡は千葉県の史跡に指定された。
昭和50年(1975年)に城跡に天保6年の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。
復興天守
天保13年に天守が焼失し、天保15年8月に天守の代わりに二層の「神殿」と称する建築が建てられたが、大多喜藩が財政難に苦しんでいたため、粗末な建築物であったと、この城を研究した渡辺包夫は考えている。天守焼失に関しては、昭和48年の学習院大学の発掘調査でも大量の焼土が発見されたことで裏づけられている。
天守存在説に関しては学界でも論議があり、非実在説もある。非実在説の根拠としては、
江戸初期にこの城を訪れたロン・ロドリゴの記録『日本見聞録』に天守が登場しない。
発掘調査時に天守石垣の痕跡がなかった。
などがあげられているが、2通りの天守絵図が存在することや、本丸は明治時代に削られたために石垣の痕跡はそもそも見つからないのではないかという反論もあり、現在でも結論に至っていない。このため、この城の再建天守の評価が歴史書によって「復元」「復興」「模擬」と分かれている。
本丸付近に土塁が、大手門付近に堀跡が残る。また、二の丸に大井戸が残り、本丸跡および二の丸御殿薬医門と共に県の文化財に指定されている。
建造物としては、大多喜高校に保存されている二の丸御殿薬医門が現存しており、前述の通り千葉県の文化財指定を受けている。
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