大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)は、江戸時代の1837年に、大坂(大阪府)で町奉行所元与力大塩平八郎と門人らが起こした江戸幕府に対する民乱である。大塩の乱とも言う。旗本が出兵した戦としては1636-37年におきた島原の乱以来、200年ぶりの合戦であった。
目次
1 経緯
2 決起
3 事後
4 関連項目
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前年1836年の天保の大飢饉により、各地で一揆が多発していた。
大坂にも米不足が起こり、これに幕府の大坂東町奉行与力であり陽明学者でもある大塩は、奉行所に対しに民衆の救援を提言したが拒否され、仕方なく自らの蔵書数万冊を全て売却し、得た資金を持って救済に当たっていた。しかしこれをも奉行所は「売名行為」と看做していた。 そのような世情であるにも関わらず、大坂町奉行の跡部良弼(老中・水野忠邦の弟)は大坂を省みずに、豪商の北風家から購入した米を新将軍 徳川家慶就任の儀式のため江戸へ送っていた。 多数の大坂担当の役人たちも皆、江戸の幕閣の機嫌を取ることに一生懸命であった。 その最中ですら利を求めて、更に米の買い占めを図っていた豪商に対しての怒りも募り、1830年に与力を辞職した平八郎は家財を売却し、家族を離縁した上で、大砲などの火器や焙烙玉(爆薬)を整えた。一揆の際の制圧のためとして私塾の師弟に軍事訓練を施し、豪商らに対して天誅を加えるべしと自らの門下生と近郷の農民に檄文を回し、金一朱とひきかえる施行札を大坂市中と近在の村に配布し、決起の檄文で参加を呼びかけた。 一方で大坂町奉行所の不正、役人の汚職などを訴える手紙を書き上げ、これを江戸の幕閣に送っていた。 決起の日を、新任の西町奉行堀利堅が、東町奉行の跡部に挨拶に来る二月十九日と決め、同日に両者を爆薬で襲撃、爆死させる計画を立てた。
ところが決起直前の当日になって、内通離反者が出てしまい、計画は奉行所に察知されてしまった。爆死させる計画は頓挫し、完全な準備の整わぬままに2月19日(西暦換算で同年3月25日)の朝、自らの屋敷に火をかけ決起した。
現在の大阪市北区天満橋の大塩邸から難波橋を渡り、北船場で鴻池屋などの豪商を襲い、近郷の農民と引っ張り込まれた大坂町民とで総勢300人ほどの勢力となり、「救民」の旗を掲げて船場の豪商家に大砲や火矢を放ったが、徒に火災(大塩焼け)が大きくなるばかりで、奉行所の兵に半日で鎮圧されてしまった。
大塩は養子・格之助と共におよそ40日余り、大坂近郊各所に潜伏した。せめて先に江戸に送った告発文が幕府に届くことを期待したのである。だが告発文は箱根の関所で発見され、押収されてしまう。失意のまま大坂に舞い戻った大塩は、美吉屋五郎兵衛の店(靱油掛町)に匿われたが、出入りする奉公人によって大坂城代土井利位に通報され、土井とその家老鷹見泉石らの率いる探索方に包囲された末、火薬を使って自決した。遺体は顔の判別も不可能な状態であったと伝わる。
大塩の挙兵は失敗に終わったものの、幕府の役人だった大塩が反乱を起こしたことは、江戸幕府の要人達に、また幕政に不満を持つ民衆達に大きな衝撃を与えた。 この乱後に全国で同様の乱が頻発し、その首謀者達は「大塩門弟」、「大塩残党」などと称していた。 遺体の状況から「大塩はまだ生きている」「海外に逃亡した」という風説が流れた。身の危険を案じた大坂町奉行が市中巡察を中止したり、また当時アメリカのモリソン号が江戸湾に侵入していたことと絡めて「大塩と黒船が江戸を襲撃する」という説まで流れた。これに、大塩一党の(遺体の)磔(形式的な公開処刑)をいまだ行っていなかったことが噂に拍車をかけた。幕府としても元役人で、武士でもあり、遺体の状況をも鑑みた上での処置であったろうが、そのため余計に生存説が拡大してしまった。仕方なく幕府は事件一年後に磔を行うが、それは塩漬けにされて人相も明らかでない遺体が十数体磔にされる、という異様な風景で、当然見物人からは大塩本人の遺体の真贋判断などできるわけではなく、さらに生存説が拡大することとなってしまった。 大塩の発した檄文は、幕府に反感を持つ庶民の手で、取締りをかいくぐり、写筆により全国に伝えられ、越後国では国学者の生田万が柏崎の代官所を襲撃する乱を起している。
関連項目
生田万の乱
(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。
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更新日時:2008年8月6日(水)06:16
取得日時:2008/08/20 22:27