大和_(戦艦)
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世界測地系: ⇒30°22′N, 128°04′E

宿毛湾沖標柱間にて公試中の大和
1941年10月30日撮影
艦歴
計画第三次海軍軍備補充計画
起工1937年11月4日
進水1940年8月8日
就役1941年12月16日
その後1945年4月7日沈没
除籍1945年8月31日
建造所呉海軍工廠
建造費約137,802,000円
1936年3月 艦政本部試算
性能諸元
基準排水量65,000トン
公試排水量69,000トン
満載排水量72,809トン
全長263.0m
水線長256.0m
全幅38.9m
公試吃水10.4m
主機関ロ号艦本式缶12缶
艦本式タービン4基4軸
153,553馬力
最大速力27.46ノット(公試成績)
航続距離16ノットで7,200海里(13,334km)
乗員竣工時:2,500名
最終時:3,332名
兵装
(新造時)45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:4基
40口径12.7cm連装高角砲:6基
25mm3連装機銃:8基
13mm連装機銃:2基
兵装
(最終時)45口径46cm3連装砲塔:3基
60口径15.5cm3連装砲塔:2基
40口径12.7cm連装高角砲:12基
25mm3連装機銃:52基
25mm単装機銃:6基
13mm連装機銃:2基
装甲舷側 410mm
甲板 200mm〜230mm
主砲防盾 650mm
艦橋500mm
搭載機6機(カタパルト2基)
呉海軍工廠で最終艤装中の大和(1941年9月20日)

大和(やまと)は、大日本帝国海軍が建造した大和型戦艦の一番艦。「戦艦大和」と呼ばれることも多い。しばしば大艦巨砲主義の象徴とされる。
目次

1 概要

2 沿革

2.1 建造

2.2 戦歴

2.3 最期

2.4 海上特攻の経緯

2.5 現在


3 歴代艦長

4 フィクションの中の大和

5 主要参考文献

5.1 図録

5.2 通史

5.3 建造記録

5.4 図面集

5.5 写真集

5.6 戦記

5.7 証言集

5.8 海底探査記録


6 同型艦

7 関連項目

8 脚注

9 外部リンク

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概要

大和・武蔵に共通する特徴については大和型戦艦を参照のこと

太平洋戦争大東亜戦争)開戦直後の1941年12月に就役し、やがて連合艦隊旗艦となった。この任は司令部設備に改良が施された同型艦 武蔵が就役(1942年8月)するまで継続された。1945年4月7日、菊水作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。

当時の日本の最高技術が結集し、特に世界最大(当時)の46cm主砲3基9門を備えていた。なお、大和建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の生産方式のもととなり重要な意味をなす(大和型戦艦を参照)。

艦名「大和」は、もともとは奈良地方(大和国)のみを指す語であったが、使用範囲は拡大し日本全体を指し示す。この巨大艦に日本を象徴する名称が付けられた事から、海軍の本艦にかける期待の度合いが見て取れる(同様の名称として扶桑がある)。正式な呼称は“軍艦大和”である。

太平洋戦争末期には海軍の主戦力は船から航空機に移っており、素早い動きをする「航空機」の攻撃には対応出来ず、戦艦としての性能を発揮する場がほとんど無いまま最期を迎えた「悲劇の軍艦」でもある。


沿革


建造

大和(計画名A140F5)は1937年11月4日広島県呉市呉海軍工廠の造船ドック〔造船船渠〕で起工された(※第4ドック〔第4船渠〕は整備・補修・艤装用ドックで建造用ではなかった)。その乾ドックは大和建造の為に拡張されて、長さが314m、幅45m、深さ11mとなった。米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部に知らされているだけだったと言われている。機密保持のため造船所を見下ろせる所には板塀が設けられ、ドックには艦の長さがわからないよう半分に屋根、周囲には干した和棕櫚(わじゅろ。干した物は主に「ほうき」に使われる。ちなみに、そのドックの近所の全ての民家から干した和棕櫚の葉が無くなり、大騒ぎになったという逸話が残っている)がかけられた。建造に携わる者には厳しい身上調査が行われた上、自分の担当以外の部署についての情報は少ししか知ることができないようになっていた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:Smilegreen