郡山藩(こおりやまはん)は大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。
目次
1 概要
2 歴代藩主
2.1 水野(みずの)家〔宗家〕
2.2 松平(奥平)(まつだいら(おくだいら))家
2.3 本多(ほんだ)家
2.4 松平(藤井)(まつだいら(ふじい))家
2.5 本多(ほんだ)家
2.6 柳沢(やなぎさわ)家
2.6.1 家老
3 関連項目
//
大和国は戦国時代、三好長慶や織田信長に仕えたことで有名な奸雄・松永久秀が治めていた。久秀が信長に叛いて自滅した後は筒井順慶、次いでその養嗣子・筒井定次、そして豊臣秀吉の弟・豊臣秀長と続いた後、豊臣政権の五奉行の一人・増田長盛が20万石で領していた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、長盛は西軍に与したが、その裏では石田三成の挙兵を徳川家康に内通するという保身策も行なっていた。そのため戦後、所領こそ召し上げられたが、一命は助けられて(一説には、金で命を買ったとも)高力清長に預けられた。
その後、大和郡山は天領となっていたが、大坂の役直前には徳川家康が豊臣秀頼の大和郡山移封を要求したために徳川氏と豊臣氏が全面衝突するに至ったと言われている。この事があったためか、元和元年(1615年)の大坂夏の陣では豊臣軍が郡山城を攻撃して城を守っていた筒井定慶を討ち取った。なお定慶はかつての同城城主・筒井順慶の養子であり、定慶の死により中世以来の大和の名族筒井氏は滅亡する事になった。
戦後、三河国刈谷藩より水野勝成が6万石で入って立藩する。しかし勝成は元和5年(1619年)備後国福山藩へ移封され、代わって大坂藩より松平忠明が12万石で入った。しかし忠明も寛永16年(1639年)播磨国姫路藩へ移封される。
入れ替わりで姫路より、本多政勝が15万石で入る。ところがこのとき、後継者をめぐっての騒動が発生した。有名な九・六騒動である。寛永15年(1638年)末、本多政朝(徳川四天王で有名な本多忠勝の孫)が病死した。政朝には本多政長という嫡子、及び本多政信という次男がいたが、この政長はまだ6歳という幼少であったため、後を継がせるわけにもいかなかった(本多氏には家訓として幼君に家督を継がせてはならぬという掟があった)。そこで政朝は、従兄弟の政勝に家督を譲り、政長成長の暁には家督を政長に譲るようにと遺言を残していたのである。
ところが、本来なら家督が巡る機会など無かった政勝は、次第にこの遺言を無視して自分の息子である本多政利に家督を譲りたいと思うようになった。そこで政勝・政利父子は時の大老・酒井忠清に取り入って、自らが家督を継ごうと画策し始める。これを見た本多氏の忠臣・都築惣左衛門は政勝に対して一刻も早く家督を成長した政長に譲るように要請する。これにより、政勝はしぶしぶ政長を養嗣子と定めたが、政利の家督への野望がその程度で立ち消えるわけが無く、寛文11年(1671年)に政勝が死去すると、即座に酒井忠清に取り入って裏工作を行なった。そして、幕府の裁定により、所領15万石のうち9万石を政長が、残り6万石を政利が継ぐようにと命じられた。この9万石、6万石の分地により、この騒動は「九・六騒動」と呼ばれているのである。
ちなみにこの騒動はここで終焉したように言われているが、実はこの後も続いた。15万石全てを相続できなかったことに不満を抱いた政利は、延宝7年(1679年)夏、政長を毒殺してしまったのである。政利はこれにより15万石全てを相続できると思ったのであろうが、幕府の再びの裁定は、政長の後継ぎである本多忠国(忠勝の子・本多忠政の外曾孫)が15万石と家督を相続した上で陸奥国福島藩へ移封となり、政利は播磨国明石藩への移封を命じられ、政利の野望は見事に打ち砕かれたのである。これは、政利とつながっていた大老・酒井忠清がこの頃になると権勢を失って失脚していたためであった。そして天和2年(1682年)政利は政長毒殺などそれまでの悪事が全て露見して所領没収の上、三河国岡崎藩の牢獄に入獄し、同地で死去してしまった。悪行の上の報いの上で、この騒動はようやく終結したのであった。
さて、忠国移封後は、播磨国明石藩から松平信之が8万石で入る。