大仙陵古墳
大仙陵古墳 ⇒国土画像情報(カラー空中写真)(国土交通省)を元に作成。
所在地大阪府堺市堺区大仙町
位置 ⇒北緯34度33分50.16秒
東経135度29分14.32秒
形状前方後円墳
規模全長486m、高さ35m(全国1位、世界最大)
築造年代5世紀前期〜中期
被葬者仁徳天皇(宮内庁治定)
出土品埴輪・須恵器、(伝)甲冑・鏡・環刀
史跡指定宮内庁治定(百舌鳥耳原中陵)
仁徳天皇陵 拝所
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大仙古墳、大山古墳とも)は、大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥古墳群の古墳の一つで、日本で最大の規模を誇る前方後円墳である。また、墓域面積は世界最大である。この古墳の役割の一つとして、海から見える前方後円墳であり、船から見える目印としての前方後円墳であることが考えられている。
宮内庁によって仁徳天皇の陵墓として管理されており、陵号は百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)。一般的には仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)、または、仁徳御陵(にんとくごりょう)と呼ばれる。
中国の秦の始皇帝陵と並び、世界でも有数の規模の陵墓の一つに数えられている。
目次
1 古墳の概要
1.1 築造時期・被葬者
1.1.1 治定について
1.2 規模
1.3 墳形・周濠
1.4 外表施設
1.5 埋葬施設
1.6 副葬品
1.6.1 ボストンの仁徳陵出土品
1.7 陪塚
2 史料上の記述
2.1 「記紀」の記述
2.2 延喜式
2.3 堺鏡
2.4 明治時代
3 現状
3.1 「世界遺産登録計画」
4 交通アクセス
5 関連事項
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採集されている円筒埴輪や須恵器の特徴から5世紀前半から中葉に築造されたものと考えられている。前方部埋葬施設の副葬品は5世紀後葉のものと考えられるが、前方部に存在する副次的な埋葬施設の年代として問題ないとされる。
「記紀」「延喜式」などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇・反正天皇・履中天皇の3陵が築造されたことになっている。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく齟齬が生じている。このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もある。しかし、この場合は「延喜式」の記述と大きく食い違うことになる。
現状での規模は、墳長およそ486m。前方部は幅305m、高さ約33m。後円部は直径245m、高さ約35m。三重の濠の外周は2,718m、その内側の面積は464,124m?という。 486mの墳長は、第2位とされる大阪府羽曳野市の誉田御廟山古墳(応神天皇陵)の422mを上回り日本一である。しかし、墳丘本体の体積や表面積では誉田御廟山古墳と甲乙付けがたく、特に体積については誉田御廟山古墳が最大であるとの指摘がある。
墳丘は3段からなっている。測量図では、前方部の一部は綺麗な三段になっているが、墳丘の大半の等高線に大きな乱れが観察され、地震などによる大規模な崩壊もしくは人為的破壊、あるいは未完成であったことが推測されている。 後円部の頂上部分は崩壊がひどいが、もとは直径60〜70mの円形であったようである。
被葬者が葬られた後円部と前方部とが繋がるくびれ部には両側に突出した造出し(つくりだし)がある。この造出しの役割は、まだ解明されていない。
江戸時代の絵図『舳松領絵図 上』に三重目の濠の南西角周辺が残存した姿が描かれており、また残存部以外でも農地の地割に濠の痕跡が認められるため、濠はもとは三重であったと考えられる。現在の三重目の濠は埋没部分を1896年(明治29年)に掘り直し、復元されたものである(『堺市史続編』)。この三重目の濠は、大古墳の周りに配置された陪塚(ばいづか)の円墳に3カ所で突き当たりそれらを迂回している。内濠(一重目)の幅は約70m、くびれ部では最も広く東側で115m、西側で120mある。この内濠を囲むのが内堤である。ここに約30cmの円筒埴輪の埋没が各所で確認されている。外濠(二重目)を囲んで外堤が造られていた。三重目の濠があるがその外側に堤がないのが不自然である。また、内側の外堤部も元々は一部が切れていたが、これも1896年の工事で補修され、現在の形になった。(その名残で、今でも航空写真で後円部を上、前方部を下と見立てた際に左側の外堤が細くなっている)