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プブリウス・コルネリウス・スキピオ
(Publius Cornelius Scipio)
紀元前236年?紀元前183年
渾名スキピオ・アフリカヌス
生誕地ローマ
死没地リテルヌム(現:カンパニア州)
所属組織共和政ローマ
指揮執政官(コンスル)
戦闘ザマの戦い
バエクラの戦い
イリッパの戦い
賞罰凱旋式:1回
プブリウス・コルネリウス・スキピオ・アフリカヌス・マイヨル(ラテン語:Publius Cornelius Scipio Africanus Major、紀元前236年 - 紀元前183年) は共和政ローマ期の軍人、元老院議員。「スキピオ・アフリカヌス」と称され、スキピオ・アエミリアヌスと区別して「大スキピオ」とも呼ばれる。第二次ポエニ戦争後期に活躍し、カルタゴの将軍ハンニバルをザマの戦いで破り戦争を終結させた。後に元老院改革に着手するグラックス兄弟の外祖父にあたる。
目次
1 経歴
1.1 幼少期
1.2 ポエニ戦争期
1.2.1 ヒスパニア遠征
1.2.2 アフリカ遠征への布石
1.2.3 執政官に選出
1.2.4 アフリカ遠征
1.2.5 ザマの戦い
1.3 戦後
1.3.1 ローマ帰国後
1.3.2 スキピオ弾劾
1.4 晩年
1.4.1 隠棲の末の死
1.4.2 死後
2 スキピオの戦術
3 評価
3.1 後世での評価
3.2 同時代人からの評価
4 参考書籍
5 脚注
6 関連項目
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経歴以降の解説では、他のスキピオ家との人物との混乱を避けるために以下の呼称に統一する:
彼本人(大スキピオ)を「スキピオ」または「スキピオ・アフリカヌス」
父プブリウス・コルネリウス・スキピオを「父プブリウス」
弟ルキウス・コルネリウス・スキピオ(スキピオ・アシアティクス)を「弟ルキウス」もしくは「ルキウス」
執政官を輩出した名門貴族であるコルネリウス氏族スキピオ家に生まれる。父はプブリウス・コルネリウス・スキピオ、母ポンポニアは社会的に成功した平民階級出身であった。
幼少の頃は敬虔な少年であったらしく、神殿に赴いてはしばしば神々の夢や前兆を目にしたという。また評判のよい彼は早くから公職を経て元老院に入るようにと周囲から勧められており、後に弟ルキウス(後のスキピオ・アシアティクス)とともに24歳で公職を得ることとなる。
それに先立つスキピオ17歳のとき第二次ポエニ戦争が勃発し、多くのローマ人がカルタゴとの戦いに駆り出された。スキピオもローマ軍に参加し、ティキヌス、トレビア、カンナエとローマ軍が敗北を重ねたいくつかの会戦を生き延び、その経験の中でハンニバルの天才的な用兵を目の当たりにした。またこの敗戦ではスキピオの周囲からも多くの戦死者が出ており、ティキヌスの戦いでスキピオは父プブリウスの窮地を救う事ができたが、カンナエの戦いでは妻の父であるアエミリウス・パウッルスが戦死している。この時スキピオは残存の騎兵勢力を結集し、劣勢を挽回しようとしていたという。
紀元前212年、前述の通り、周囲の勧めでアエディリス(按察官)の公職を得る。立候補の際、スキピオが法定年齢の30歳未満であった為、護民官が立候補に反対したが、スキピオの人気に押されて異議の申し出を取り下げるという一幕もあった。