多治比 嶋(たじひ の しま、推古天皇32年(624年) - 大宝元年7月21日(701年8月29日))は、日本の飛鳥時代の貴族。父は多治比彦王。母は不明。兄弟に三宅麿、子に多治比池守、水守、広成、広足、県守らがいる。
宣化天皇の4世孫(玄孫)にあたる。多治比氏は奈良時代においては子の池守も大納言に出世する等、中流貴族として栄え、平安時代以降は衰退したが、島の玄孫の真宗は桓武天皇との間に葛原親王をなし、桓武平氏にもその血統を伝える事となった。また、鎌倉時代に活躍した武蔵七党の内、丹党は出自が多治比氏ではないかとする説がある。
先祖
継体天皇-宣化天皇-上殖葉皇子-十市王-多治比彦王-多治比嶋
推古朝に生まれたとされるが、歴史の表舞台への登場は遅く、天武朝の682年(天武天皇11年)頃であった。684年(天武天皇13年)の八色の姓制度においては、天皇家にもその血統が伝わっていた(天武天皇の高祖母の石姫皇女は宣化天皇皇女で、嶋にとっては曾祖叔母にあたる。)、宣化天皇の直系子孫である嶋も最高位の真人を授かった。
天武天皇は大臣を置かない、皇親政治を執っていたが、天皇が崩御し、690年(持統天皇4年)に皇后の?野讚良皇女が称制を経て持統天皇として即位すると、嶋も壬申の乱で罰せられた中臣金以来空職となっていた右大臣に出世する。臣下では太政大臣、高市皇子に次いで高い地位につき、696年(持統天皇11年)の皇子薨去により、臣下最高位となる。701年に正二位・左大臣となったが、間もなく没した。大宝律令が完成する直前の事であった。
竹取物語に登場する、がくや姫に求婚する貴族達の一人、石作りの皇子はこの嶋がモデルと言われている。また中西進氏は、嶋は歴史に名高い宮廷歌人・柿本人麻呂のパトロンだったのではないかと主張していた。
同年初めに亡くなった大納言・大伴御行の後を追う形となった嶋の後は、阿倍御主人がしばらく臣下最高位(右大臣)となったが、彼も間もなく没し、嶋の次に左大臣に出世した石上麻呂も、平城京遷都においては藤原京の留守役を押し付けられる等天武朝から活躍していた老臣達は次々と姿を消し、藤原不比等が藤原氏最初の黄金時代を築く事となる。(なお、息子の池守は長屋王の変では不比等の息子達である藤原四兄弟と組んで、王を排斥している。) カテゴリ: 飛鳥時代の人物 | 624年生 | 701年没
更新日時:2008年6月2日(月)09:49
取得日時:2008/07/27 15:41