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夏(か、紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)は、中国最古の伝説上の王朝。夏后ともいう。中国の史書には初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続いたと記録されている。
目次
1 夏は実在したか
2 歴史
2.1 禹の創業
2.2 最初の世襲王朝
2.3 夏の衰退と滅亡
3 夏の帝の一覧
4 関連文献
5 関連項目
6 外部リンク
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次の殷王朝(「商」とも呼ぶ)と異なり、文字資料を伴う考古学上の発見がなく、実在した確実な証拠は現在のところ発見されていない「伝説上の王朝」である。夏という名称も殷王朝が前王朝を「夏」と称していたに過ぎず、「夏」自身による自称は不明である(殷も周による呼称である)。
しかし、『史記』をはじめとする中国の史書では実在した歴史として記載されており、殷王朝の伝承にても、夏が実在しないのであれば「前王朝を倒して簒奪した」という逸話を捏造し後世に伝えたことになり、それに合理性を持たせられないとする主張がある。
近年の考古学の実績からも、夏王朝が実在していた可能性は非常に高いものと見なされつつある。今世紀になってから炭素14年代測定法により、河南省偃師の二里頭村の二里頭遺跡や河南省新密市の新砦遺跡が夏の時代に相当する年代のものとほぼ確定するなど、考古学的な立証の期待も高まっている。
以下は『史記』夏本紀による。
夏王朝の始祖となる禹は、五帝のひとり??の孫である。彼は舜帝に命じられて、黄河の治水などの功績をなし大いに認められた。また人望の高かった禹を舜は後継者と考えていた。舜の死後3年の喪に服した禹は、舜の子である商均を帝位に就けようとしたが、諸侯が商均を舜の後継者と認めなかったために禹が帝位に即位、陽城に都城を定めたとされる。即位後、皋陶に政治の補佐をさせたが、皋陶の死去に伴い益による朝政の補佐が行われた。
禹の死後、益が後継者とされていたが、益が執政に慣れていないこともあり、諸侯は禹の子である啓を帝位に就けた。これが中国史上最初の帝王位の世襲とされる。帝位に就いた啓は、有扈氏が服従しなかったために討伐を加えている。
啓の死後、子の太康が帝位を継承したが、『史記』によれば「国を失った」と記録されるなど国勢の衰退が見られる。太康の五人の弟たちは「五子之歌」をつくった。
「子帝太康立。帝太康失国、昆弟五人、須于洛?、作五子之歌」
? 「五子之歌」, 『史記』夏本紀より
この五子之歌は『尚書』に記されており、その内容は太康が戻らないことを弟達が恨んだ歌である。この歌より太康が遊楽にふけり朝政を省みなかったために国を追放されたのだと解釈されている(孔安国)。
太康の死後、弟の中康が後を継いだ。中康の時に諸侯の羲氏と和氏が淫楽にふけっていたので、胤(胤は名前とも、国の名前ともいう)に命じ羲氏と和氏を討伐している。
『史記』には、中康の後の帝達についての事跡は特に伝えられていない。
中康の11代後の孔甲は、性格が淫乱であり、自分を鬼神に擬することを好み、人心は夏王朝から離れていったと記録され、夏朝の徳治にも翳りが出たとされている。
また桀は人徳に欠け、武力で諸侯や民衆を押さえつけたことで人心の離反を招いた。